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2013.05.05

【追悼】田中忠道・福岡大部長(1969年世界王者)を悼む(中)

《「上」から続く》


田中さんにとって、世界へ飛躍する大きなチャンスは東京五輪翌年の1965年だった。世界選手権(英国・マンチェスター)の代表選考会決勝で、当時全日本学生選手権で3連覇の福田富昭・現日本協会会長(日大)に勝ち、悲願の世界選手権出場を決めたはずだった。

 しかし同年の世界選手権は、実力が接近している階級は2選手を現地に連れて行き、調子のいい方を起用する方式がとられ、田中さんの階級はそれに該当した。マンチェスターに行った田中さんに待っていたのは、「福田を起用する」という決定。福田・現会長は首脳陣の期待にこたえて見事に優勝したが、田中さんには納得できない気持ちが残った。

 木口さんはこの年から英国に留学しており、田中さんの来英と世界選手権出場を心待ちにしていた。非情の決定に、「田中は『なんで…』と言って落ち込んでいたので、励ましました」と言う。

 田中さんは1967年に福岡大の教員となり、監督兼選手として現役活動を続けた。当時もレスリングの東西格差は存在しており、世界のトップを目指す選手にとって、練習相手にも事欠く西日本の新興大学への就職は冒険だった。しかし、福岡では体力づくりに力を入れ、全日本の合宿では技術や戦術を磨くという工夫でこの壁を乗り越え、1969年の世界選手権(アルゼンチン)で見事に優勝。

 その後、2年間のカナダ留学を得て、1972年ミュンヘン五輪を目指した。世界V2の柳田英明さんに敗れて五輪出場の夢はならなかったが、カナダ留学を経験したことで、選手としてだけではなく指導者としての力をつけ、福岡大を西日本学生界の雄に育てる手腕を発揮している。

■「世界で通用する選手」もさることながら、「世界で通用する人間」を育成

 福岡大での田中さんは、カナダで学んだ練習法で選手の指導にあたった。それは、昭和40年代の日本の運動部の練習とはまったく違った内容だった。1993年の「月刊レスリング」の取材に、「日本での練習は、正直なところ嫌で嫌で仕方なかったんです。カナダでのレスリング活動は。楽しくて仕方なかった。レスリングって、こんなに楽しいものだったのかなと再認識しました」と答えている。

吉武行寛コーチは、田中さんの指導を受けて西日本学生王者に輝いた実績を持つが、田中さんの指導を「高校時代、厳しい監督にしごかれ、たたかれて指導を受けてきたほとんどの新入生は、入部早々びっくりしたことと思います。しごきも体罰もなく、あるのは簡単な説明と、ただひたすらに練習される先生の姿のみです」と説明する。

 厳しさがなかったわけではない。「普段は穏やかな人ですが、マットに上がると人が変わったように厳しく、一切の妥協も許さない先生自身の練習は、ものすごいものでした。先生は『大学は習うところではなく学ぶとろである』ということを身をもって教えたかったのだと思います。『良い教師は説明する。優れた教師は示す。偉大な教師は心に火を付ける』と言った方がいます。先生は常に行動で示されていました。また、心に火をつけてもらった部員やゼミ生も多くいたように思います」と回想する。

 ただ、高校レスリング界の強豪はなかなか西日本の大学に来てくれないのが、当時から現在まで続く現実。世界で通用する選手を育成できなかったのは、「寂しかったんじゃないですかね」と吉武コーチ。その分、「世界に通用するような人間を育成しようとしたのではないでしょうか」と振り返る。

 海外で得た経験と人脈を最大限に生かし、福岡大のみならず西日本の学生に呼びかけ、カナダ・米国・韓国等へ年1回は海外遠征(合宿を含め)を実施。「卒業後、社会で役立つように国際感覚を身に付けられるような指導をしていました」と振り返る。カナダでは、豊富な人脈によってVIP待遇だったそうで、同行した監督、コーチ、選手は相応のもてなしを受け、有意義な遠征を経験を積めたそうだ。

 女子では世界を狙えると思ったのか、1990年代後半、女子選手を受け入れ、50歳を越えていたにもかかわらず積極的にスパーリングをやり、1998年には篠村(現姓丸山)敦子さんを51kg級の世界チャンピオンへ育てた。その後、世界ジュニア選手権で3人の優勝者を輩出(世良桃子さん、幹加奈子さん、赤坂幸子さん)。指導者としての力量を見せた。

■西日本のレベルアップのため、福岡でインカレを2度開催

前述の海外遠征がそうだったように、西日本のレスリング界のことも真剣に考えて行動していた。そのひとつが、2000年と2004年に福岡市で全日本学生選手権(インカレ)を開催したこと。全日本のビッグイベントのほとんどが東京や大阪で開催されており、地方の高校生やキッズ選手たちはトップレベルの試合を観戦する機会がほとんどない状況を改善したい気持ちがあったという。

 吉武コーチは「レスリングの底辺拡大や普及発展の為にも、福岡でインカレを開催したかったのだと思います。2度のインカレ開催に際しては、会場の確保、後援・協賛のお願いなど、一人で精力的に動かれていました。滞りなく無事に開催されたことは先生のご尽力によるものです」と振り返る。

 また、レスリングの普及と地方大学の学生の経済的負担も考え、西日本学連の大会のいくつかの試合を福岡でやる構想も持っていたという。こうした企画力と行動力とが、西日本学生連盟の会長、そして全日本学生連盟の会長へと推挙された原動力なのだろう。

木口さんは、田中さんが闘病生活に入ってから何度か九州に行っている。夫人から「木口さんが来る時はとても元気になり、楽しみにしていました」と聞かされたという。木口さんは4月下旬に田中さんのお見舞いに行く予定だったという。結局、5月2日に田中さんの遺影が飾っていある自宅を訪れた。「まさか線香をあげに行くことになるとは…。悔しいし辛い」と、親友の逝去を悔やんだ。(続く)

※4月14日に木口さんを中心とした法大OBで追悼会が行われました(左写真)。=提供・水井嗣興さん

 







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