(文=樋口郁夫、撮影=矢吹建夫)
今年9月の茨城国体への強化が実り、2月の関東予選で13年ぶりの決勝進出を果たした鹿島学園(茨城)が、全国大会でも決勝進出を達成。2月と同じく日体大柏(千葉)には及ばなかったものの、部史上初の2位となる殊勲を挙げた。高野謙二監督は「県をあげて強化をしてきました。いろんな人たちの応援もあり、その成果が出た2位だったと思います」と、喜びを隠せなかった。
「去年までのチームを見ていると、あとちょっとのところで負けることが多かった」。その反省から、力を入れた練習が“最後の一押し”をしっかりやること。マット運動を端から端までやる、打ち込み練習で最後までやる、『あと1本』『あと10分』を続けて、気持ちを常に延長戦にもっていく練習を重ねてきた。「そうした練習が、接戦を勝ち抜けた試合の多さにつながったと思う」と言う。
決勝を0-7で負けたことは悔しく、「1から出直さなければなりません」と反省するが、大会後半の個人戦では125kg級の出頭海が優勝。同校から大会史上初の王者に輝き、一矢報いた形となった。
鹿嶋市(注=高校名ほかは「鹿島」だが、市名は「鹿嶋」)の住民の中には、「2位で何を喜んでいるんだ?」と思う人もいるかもしれない。同市を本拠地とするJリーグの鹿島アントラーズは、国内三大大会(J1リーグ、Jリーグカップ、天皇杯全日本選手権)のすべてで最多優勝を誇り、日本を代表するチームだからだ。同市はサッカー一色といってもよく、他のスポーツは、国民的スポーツの野球ですら影が薄い状態。選手の勧誘からして大変だ。
だが、鹿島アントラーズの成功事例こそが、あらゆるスポーツのあらゆるチームにとっての見本でもある。鹿島アントラーズの前身の住友金属は、以前は日本リーグ2部のチームで、人口4万人の町(当時は鹿島郡鹿島町)にあった弱小球団。Jリーグ発足にあたって参加を打診したところ、のちの川渕三郎チェアマンは「99.9999%無理でしょう」と回答したという(後日談として、「100%無理と思ったが、失礼なので99.9999%と言った」とか)。
普通なら、この段階であきらめるだろうが、担当者はがっかりするどころか、うれしそうに「100%無理ではないのですね。0.0001%の可能性とは何ですか?」と聞き返した。川渕チェアマンは、諦めさせるため「屋根のついた1万5000人収容の専用球技場を作ることです」と答えた。
川渕チェアマンはサッカーのプロ化に際し、反対する先輩理事を「時期尚早なんて言っていたら、100年経ったって時期尚早ですよ」と説き伏せ、実現させた人物。そんな“不可能を可能にする人間”であっても、人口4万人の町が1万5000人収容のスタジアムを建設するとは夢にも思わなかったのだろう。
しかし、担当者の熱意が町おこしを考えていた鹿島町を動かし、スタジアム建設が決定。Jリーグ参戦が実現した。地域住民とのつながりを強めることで、スタジアムはサッカー以外のイベントでも積極的に使って収入を確保。そのひとつのフィットネスクラブは、専門家から「絶対に成功しません」と言われたそうだが、固定観念にとらわれなかった。
鹿島アントラーズも、放送局との“タッグ”やファンクラブ制度の立ち上げ、コンピューターによる顧客管理など、今ではどのチームでもやっているファン獲得作戦をいち早く取り入れた。自治体・企業・住民が一体となってファン獲得に力を入れて経営を安定させ、チームの発展につなげた。鹿島アントラーズの発展を支えたものは、携わっていた人たちのプラス思考であり、熱意以外の何ものでもない。
そんな鹿嶋市に根づき、大きく育ちつつあるレスリング。「サッカーの町だから、レスリングは根づかないよ」と思う人がいるなら、そのサッカーがどんなふうに発展したかを説明すれば、返す言葉はないだろう。0.0001%の可能性を、多くの人の情熱で広げていったのが鹿嶋市のサッカーだ。
鹿島学園のレスリング部にも、いくつかの企業からの飲食品の差し入れやトレーニング機器の寄付がある。約100人のOBのうち、大学へ進んでもレスリングを続けた(続けている)選手は約7割。高野監督が運営している鹿島キッズも軌道に乗っている。レスリングへの理解者は多く、「100%サッカーの街」ではない。飛躍の可能性は「0.0001%」などではない。
「サッカーに対しての意地は?」との問いに、高野監督は「ありますよ」ときっぱり。日本のレスリングは、マイナーだったがゆえに、その反発心でオリンピックの金メダルを量産してきた。サッカーの街で燃え上がりつつある反発心が、全国制覇へつながるか。