新型コロナウイルス蔓延のため、大会開催のみならず日々の練習も中止・自粛を余儀なくされている。この機会に、レスリングの新旧担当記者にレスリング取材を振り返ってもらいつつ、将来へ向けての提言や希望をつづってもらった。
第1回は、フリーランスのライターとして、夏冬のオリンピックやサッカーのワールドカップなど、世界のメジャーイベントを数多く取材している矢内由美子記者。
(文=フリーライター・矢内由美子)
表彰台で右手を額の前に掲げた。「オー!これはっ!」。カメラマンがすごく喜んでいた。
シドニー・オリンピック第13日の2000年9月27日。男子グレコローマン69kg級で銀メダルに輝いた永田克彦は、当時、警視庁に所属していた。兄の裕志さんがプロレス界で躍進中だった時期。オリジナル技「ナガタ・ロック」をかける時に出す敬礼ポーズで人気を博すようになっていた頃だ。
「強運」がキーワードだった。小中学校までは野球部で、レスリングは高1から。高校時代は千葉県2位が最高ながら、兄が実績を残していたおかげで日体大に合格したという。自他共に認める練習の鬼は、その後、めきめきと力をつけたが、国際舞台の壁は分厚く、シドニー・オリンピック前年の1999年世界選手権(ギリシャ)は30位に終わっていた。
ところが、オリンピック・イヤーになると運が舞い込むようになった。1~3月のオリンピック予選シリーズ(注=当時は5大会中3大会の得点合計で出場資格が決まった)でシドニー行きの切符を手にすると、5月のアジア選手権(韓国)で国際大会初タイトルを獲得。
勢いをつけて臨んだオリンピック本番では、予選リーグ1勝1敗ながらポイント差で決勝トーナメントの準決勝に進み、欧州選手権連覇のアレクセイ・グルチコフ(ロシア)を3-1で破って決勝へ進出した。
アトランタ・オリンピック74kg級金メダルのフェリベルト・アスクイ(キューバ)と闘った決勝では、1分44秒で0-11のテクニカルフォール負けを喫したが、「緊張やプレッシャーはなかった」とさわやかに言った。2勝2敗で銀メダルを手にした強運以上に、すがすがしさが印象的だった。
9月27日は、男子グレコローマン130kg級で「人類最強」とうたわれ、13年間無敗だったアレクサンダー・カレリン(ロシア)が銀メダルにとどまり、4連覇を逃したことが世界的ニュースとなった。同じ会場で、カレリンが負けたことよりも大きなニュースを得た日本の報道陣は、本当に幸せだった。
レスリング取材の醍醐味のひとつに、エピソードがザクザク出てくる面白さがある。永田も例外ではなかった。2歳の時、化膿してはがれた爪の手術をしたが、まったく泣かずに医者を驚かせた。5歳の時には自転車で車にぶつかったが無傷だった。高1でレスリングを始めた時は身長170cm、体重55kg。それから10年でオリンピック銀メダルまでたどり着いた。
それにしても、シドニー・オリンピックはのどかだった。閉会式が終わり、プレスルームから会社に原稿を送った後、記者席に戻ってみると、フィールド内では各国選手や閉会式キャストが入り乱れて踊ったりハイタッチをしたりしていた。観客は既にいなかったが、スタジアムではまだまだお祭り騒ぎが続いていた。
各国のプレスがフィールドに続々と乱入していくのを見て、筆者も向かった。もちろん、何か良い話を聞けばすぐにメモできるようにペンとノートを持って行った。その中で見つけたのが、銀メダルを首にかけて漂っていた永田だ。どさくさに紛れて、みんなで写真を撮った。永田は笑みを絶やさなかった。
オリンピックでは、出番を終えた日本勢は基本的に帰国の途に就く。閉会式に出られるのは日程が後半に組まれている競技の特権でもある。シドニー・オリンピックでのこの経験以降、筆者は選手たちの解放感にあふれた素の表情を見ることができる閉会式が大好きになった。
東京オリンピックでは、開会式への参加が難しい選手はいるが、閉会式なら日本選手は全員参加できるだろう。オリンピック史上最大の困難を乗り越えて大舞台を踏むアスリートたちの笑顔を見たい。泣きたいほど、見たい。
矢内由美子(やない・ゆみこ) 北海道出身。1990年から2006年までスポーツニッポン新聞社に勤め、06年からフリーのスポーツライターとして活動。オリンピック取材は夏4大会、冬4大会。サッカーワールドカップは5大会を取材。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。スポーツグラフィックナンバー、ヤフーニュース個人などで執筆。 |