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2020.07.11

【担当記者が見たレスリング(10)】敗者の気持ちを知り、一回り大きくなった吉田沙保里…高橋広史(中日新聞記者)

(文=中日新聞記者・高橋広史)

北京オリンピックを半年後に控えた2008年1月、吉田沙保里の白星街道が途切れた

 国内外無敵を誇る吉田沙保里が負けた。マット横のベンチで顔を覆う。団体戦の仲間の試合を直視できず、日本の敗戦が決まると、こらえていた涙があふれ出た。自力で歩けず、伊調千春に支えられて控室へと消えていった。世界最強の女子とうたわれたレスラーの想像もつなかい姿だった。

 2008年1月19日。大気汚染が問題になっていた陰鬱な空の中国・太原で、国別対抗戦の女子のワールドカップ(W杯)が開幕した。予選リーグの米国戦の55kg級で、吉田がノーマークのマルシー・バンデュセンに敗れた。

 第1ピリオドも第2ピリオドも、代名詞のタックルを返された。1点リードで迎えた第2ピリオドは、終了間際の片足タックルで相手を倒したかのように見えたが、ビデオ判定で返し技にポイントが入った。国内外の連勝記録は「119」でストップ。1996年に13歳で国際大会に初めて出場して以来、外国選手に初めて負けた。

憔悴し切った姿から4日後、不死鳥のようによみがえっていた

 敗戦の衝撃の大きさをおもんぱかった日本チームの栄和人監督からは、「本人のコメントは勘弁してくれ」と頼まれた。記者たちは控室の前で待つことしかできない。1時間以上は経ったと記憶している。突然、控室に招き入れられた。「勝ってしゃべり、負けてしゃべらない」ことを非とする吉田の意思だと聞いた。

連勝記録が途切れた吉田は、タオルに顔をうずめ、伊調千春に抱えられて控室に消えた

 「自分の気持ちが…。勝てると思って、軽くいったのが悪いと思います」。それが第一声だった。大会直前に痛めた右手について弁解することも、ビデオ判定に不満をぶつけることもなかった。嗚咽は止まらなかったが、「自分が、悪い」と懸命に言葉をつないだ。芯の強いアスリートだと思った。

 ところが2日後の帰国日、再び精神状態が不安定になり、経由した北京の空港でも涙が止まらず、真っすぐに歩けない。憔悴しきった姿を目の当たりにして、「7ヶ月後の北京オリンピックは大丈夫なのだろうか」と不安が頭をもたげた。

 すごさは、そこからだった。帰国4日後に練習を再開。母校の中京女大(現至学館大)の道場で後輩たちを前にタックル返しで負けたシーンを自ら再現し、なぜ返されたのか、敗因を解説してみせた。負けた現実と向き合うことから始めた。

 栄監督は、連勝ストップを大きく報じるスポーツ紙の一面を額に入れて道場に置いた。本人は、団体の悔しい銅メダルをあえて自室のベッドから見えるところにつるした。

敗戦と正面から向き合い、はい上がった吉田に真の強さを見た

 母・幸代さんは帰国した娘に「これまでに沙保里に負けた119人が悔しい思いをしてきた。沙保里は一回負けただけでしょ」と語りかけたという。

帰国から4日後、メディアにしっかりと向き合った吉田=2008年1月25日、中京女大(現至学館大)

 今は亡き父・栄勝さんに、微妙な判定について聞いた時の返答が忘れられない。「周りは、『惜しかったね』『判定がおかしかったね』とお世辞を言う。でも、そう言われると逆に余計に落ち込む。負けは負け。負けた後が大事なんだ」。母の優しさと父の厳しさが、不屈の原動力になったのだと思う。

 敗者の気持ちを知った吉田は、競技者として一回り大きくなった。返されないタックルを磨き、再び負けるかもしれないという恐怖心とも闘い、さらに強くなった。季節は夏に変わり、苦い思い出の中国で開催された北京オリンピックで連覇を飾った。いつしか「霊長類最強女子」と称されるようになっていった。

 本当の強さとは、敗戦と正面から向き合い、自分自身ではい上がることだと思う。選手は人を感動させるためにマットに上がるわけではない。勝つために上がる。ただ、負けないレスラーはいない。敗戦からはい上がる懸命さや泥臭さが、結果として、見ている者の心を揺さぶる。

 1月19日に119連勝が止まった。「119」は「いい苦」。負けの苦しみを成長につなげた。その意味でもレスリング史に残る1ページだったと確信している。

高橋広史(たかはし・ひろし)1966年生まれ。東京都府中市出身。1990年、中日新聞社入社。オリンピックは、冬季の長野大会、ソルトレークシティー大会、夏季の北京大会を取材。レスリングの世界選手権は2005年から3大会取材。運動部デスク、経済部デスクを経て、現在は豊田支局長。

担当記者が見たレスリング

■7月4日: “人と向き合う”からこそ感じられた取材空間、選手との距離を縮めた…菅家大輔(日刊スポーツ・元記者)
■6月27日: パリは燃えているか? 歓喜のアニマル浜口さんが夜空に絶叫した夜…高木圭介(元東京スポーツ)
■6月20日: 父と娘の感動の肩車! 朝刊スポーツ4紙の一面を飾った名シーンの裏側…高木圭介(元東京スポーツ)
■6月13日: レスリングは「奇抜さ」の宝庫、他競技では見られない発想を…渡辺学(東京スポーツ)
■6月5日: レスラーの強さは「フィジカル」と「負けず嫌い」、もっと冒険していい…森本任(共同通信)
■5月30日: 減量より筋力アップ! 格闘技の本質は“強さの追求”だ…波多江航(読売新聞)
■5月23日: 男子復活に必要なものは、1988年ソウル大会の“あの熱さ”…久浦真一(スポーツ報知)
■5月16日: 語学を勉強し、人脈をつくり、国際感覚のある人材の育成を期待…柴田真宏(元朝日新聞)
■5月9日: もっと増やせないか、「フォール勝ち」…粟野仁雄(ジャーナリスト)
■5月2日: 閉会式で見たい、困難を乗り越えた選手の満面の笑みを!…矢内由美子(フリーライター)







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