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2020.08.21

【特集】実らなかった“36歳の挑戦”だったが、多くの人が共感…プロボクシングの世界で燃えた米澤重隆さん(青山学院大レスリング部OB)-(下)

《「上」より続く》

 子供の頃から争いごとが嫌いで、殴り合いの喧嘩をしたこともないと言う米澤さん。「一八〇秒の熱量」の著者の山本草介さんに「殴らないで勝つ方法、ありますか?」と聞いたことがあるそうだ。ボクシングに向く性格ではなかった。ところが、初めて接したボクシングに魅入られてしまった。

東洋太平洋ランキング入りを目指してタイへ遠征した時の米澤さん=2013年6月(本人提供)

 ボクシングは、パンチによる攻撃しか認められていない。「腰から下を殴ったり、倒れた相手を殴ったりしては駄目」以外にも、一般には知られていない細かなルールもある。攻撃は極めて制約されている格闘技だ。その中で、どう攻め、どう守るか。上半身の攻防に限られるグレコローマンと相通じるものがあると言う。もしかしたら、グレコローマン選手としての“燃え残ったもの”がエネルギーだったのかもしれない。

 当時はプロのライセンスを取得するのは29歳までだったが、ルールが変わって32歳までとなった運にも恵まれ、2009年7月にプロテストに合格。ボクシングにかけることになった。

 デビュー戦でのTKO負けを経て、35歳で迎えた新人王決定戦では決勝まで進みながら惜敗(2011年11月6日、本HP記事)。プロボクサーの定年の37歳を迎えるのが先か、定年を免除されるチャンピオンになるのが先かの約9ヶ月間にわたる闘いの様子は、「一八〇秒の熱量」に詳しく書いてあるので割愛するが、読んだ人なら、だれもが「なぜ、そこまで?」と思ってしまう、ひたむきな挑戦だった。

過酷な戦いだったが、「やめる理由がなかった」

 世界王者にでもならない限り、ボクシングだけでは生活できない。米澤さんは、夜勤も多くある不規則な契約の仕事をしながらのボクシング活動だった。睡眠時間が数時間で(しかも倉庫で寝る時もあった)ジムに向かうことも。正社員になってしまってはボクシング活動が制限され、試合前にまとまって休みをもらうこともできないから、その立場を続けた。

タイの試合会場。ムエタイとともに、ボクシングも盛んで、熱く燃える闘いが展開されている(本人提供)

 途中、脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)という腰の故障を発症し、整骨院に何度も通った。節制を強いられるスポーツなので、学生時代は底なしに飲んでいた酒はぴたりとやめた。「ダメージが残るから」と熱い風呂へ入ることも制限しなければならない生活。米澤さんは挑み続け、ジムの会長もサポートをやめなかった。才能に恵まれていて、会長やコーチが眠っている素質を開花させようとしていたのなら理解できる。そうではない。

 何度も聞かれたであろう、挑み続けた理由を聞いた。著者の山本氏は「人が本当にやりたいことって、簡単にその理由が言えないから、やるんじゃないか」と結論づけていたので(スポーツ報知)、簡単に答えは返ってこないことも予想された。

 だが、米澤さんは「やめる理由がなかったんですよ」と即座に答えてくれた。睡眠も満足にとれない不規則な生活でも、ジムに行って練習はできたし、その日の食事代に困るほどの貧困生活ではなかった。「夜勤もある不規則な仕事を理由に(ボクシングを)やめたくなかった。仕事を変えればいいじゃないか、となるでしょ」

 腰痛がひどい時もあったが、「寝たきりだったら、やめたでしょう。そうではなかった。腰痛もやめる理由にはならなかったですね」。

“定年”がなければ、「今もダラダラやっていたかも」

 「30代中盤の男が貯金も満足になく、将来に不安を持たなかったのか」との問いには、「親は心配していたでしょうね…」と前置きし、やや答えに詰まった。そして「そこまで考える人間じゃなかったんですよ。まあ、今、こうして生活できているから、よかったんじゃないですか」と笑う。

ボクシングではお馴染みの“ガンつけ合戦”に挑んだ! 相手は世界10位!=2013年9月(本人提供)

 危険な職業として生命保険にも入れないが、重大事故を考えるようならグローブははめない。試合の時は厳格なドクターチェックがあり、救急車が会場に待機しているなど、ボクシングのリング禍を防ぐための体制はすばらしいそうで、「好きなことをやって、そこまでやってもらって、それで万が一の時は仕方ない、という気持ちでした」と言う。

 「その意味では、37歳定年制は賛成です。このルール、日本だけなんです。37歳以上になると、海外で試合をする選手もいます」と説明しながら、自身の闘いは37歳できっぱり終え、それでよかったことを強調した。「定年があったから、あれだけ集中して燃えられた。そうでなかったら、今もダラダラやっていて、体が壊れていたかもしれない」。

 話の中に「自分に負けたくない」「自分を高めたい」「どこまで行けるか試してみたかった」「自分の持っているものを出し切りたい」という言葉も出てきた。いろんな要素がからみあっての“三十路の挑戦”だった。37歳の誕生日の直前に行われた最後の試合を終えた時は「やり切った」という気持ちだったという。

 それから6年。ボクシング時代を支えてくれたみな子さんと結婚し(引退セレモニーのリング上で公開プロポーズ)、“普通の”社会人生活を送っている。「もう、あれだけ燃えることはできないですよ。今は余生です」と笑う。

挑戦と努力は必ずしも成果につながらない、それでも…

 かつてNHKで「プロジェクトX」というドキュメンタリー番組があった。日の当たらない長い下積みにもかかわらず、あくなき挑戦と努力の末に成果を出した“サクセス・ストーリー”の番組は6年近く続き、多くの人が共感し、人生の指針とした。

日の丸には多くの激励のサイン。36歳の熱き挑戦を多くの人が応援した=2013年9月(本人提供)

 一方で、挑戦と努力は必ずしも成果につながるものではない。米澤さんの挑戦も「成功」を導くことはできなかった。それでも、本人の心には何ものにも代えられない貴重な財産として残った。「燃え切れた」と感じれば、その人にとっての“心の金メダル”。その生きざまは人を感動させ、共感させるものがある。

 いろんな書評に描かれている読後感は、単なる共感の域を超えていると言っていい。「夢にかける熱量に圧倒された」「心が震える」「自分が失ってしまった何かが見えてくるだろう」「漠然と生きる私たちを鼓舞する」(以上アサトーミナミさん)、「時空を超えて飲みこまれる」「不気味ささえ覚える余韻」(以上秋山千佳さん)…。

 挑戦と努力の素晴らしさを見せてくれた米澤さんの生きざまは、「この努力は実を結ばないかもしれない…」と感じ始めた人や、挑戦を求めてさまよっている人に、大きなエネルギーを与え、気持ちを奮い立たせてくれることだろう。

 燃え切った米澤さんだけに、その後の6年間で次の目標が見つからないのも当然かもしれない。だが、人生80年とも90年とも言われる現在、37歳から40年以上の「余生」は長すぎる。それを問うと、「こうして出版されたことをきっかけに、どこかでボクシングの指導に携わるのもいいですね」と言う。

 米澤さんなればこそ、再び熱く燃える目標を見つけ、今度は「人生、死ぬまで挑戦だ」という生き方を見せてほしい。

《「一八〇秒の熱量」通信販売サイト》







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