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2020.11.06

【特集】3つの高校でレスリング部を創部、いずれも全国大会へ出場させ、来春勇退する名伯楽、三村和人監督(京都・日星高)《上》

創部5年目の京都・日星高を全国大会に初出場させた三村和人監督=10月9日、新潟東総合スポーツセンター(撮影・保高幸子)

 名指導者の呼称として、「名伯楽(めいはくらく)」という言葉がある。名馬を見抜いて育てることに秀でた周(昔の中国)に実在した「伯楽」という人物の名前が由来。スポーツ界では、チャンピオンを量産した指導者や、チームを何度も優勝させた指導者を指すことが多いが、「人の能力を伸ばすのが上手な人」という意味もある。

 今月行われた風間杯全国高校選抜大会(新潟市)の学校対抗戦に、京都府と近畿の闘いを勝ち抜いてチームを初出場に導いた日星高・三村和人監督は、学校対抗戦の全国優勝こそ達成していないものの、「名伯楽」と呼ぶべき指導者だ。網野高、海洋高に続いて、今回が3度目のレスリング部の創設で、いずれのチームも4年で全国大会に出場させる手腕を発揮した。

 個人ではインターハイ王者や、のちの世界チャンピオンやオリンピック・メダリストを育てているのだから、間違いなくレスリング界の「名伯楽」の一人だ。

 来年3月に日星高を定年となり、高校選手の指導は今年度いっぱい。高校の監督をやる最後の年に、3度目の全国大会初出場を達成し、期待いっぱいで迎えた2020年…。新型コロナウィルスの感染拡大のため、高校の全国大会が次々と流れてしまった。

チームの全国大会初出場を支えた51kg級の池田拓人。昨年の全国高校生グレコローマン選手権は3位に入賞した=撮影・保高幸子

 幻となる3度目の初出場だったが、10月に全国高校選抜大会が開催されることになり、かろうじて思いは現実のものとなった。「いい思い出ができました」と、3つの高校を「0」から育てた指導者人生を振り返った。

 今大会は、1回戦で伝統校の樟南(鹿児島)と対戦する組み合わせ。同校が棄権したので、2回戦で、これまた全国大会優勝の経験がある埼玉栄(埼玉)が初戦の相手となった。60kg級終了時点でチームスコア2-1とリードしたが、重量級は厳しい闘いを強いられ、2-5での黒星。残念ながら初出場初勝利はならなかった。

 「軽量3階級は勝って、重量級はまぐれ勝負、という感じで考えていたんですけど…」と残念そうな三村監督。だが創部5年目、高校に入ってからレスリングを始めた選手が4人という中で、京都と近畿の予選を勝ち抜いて全国大会のマットに立った。「近畿大会はベスト4でした。これだけでも、大きな一歩でしたよね」と気を取り直した。

1988年京都国体へ向け、網野にレスリングの種をまく

 同志社大OBで、レスリングは大学から始めたが全日本学生選手権3位の実績を持つ。1988年の京都国体(レスリングは網野からすぐの弥栄町と丹後町で開催)へ向け、京都府の強化の一環として1985年に網野高に赴任。レスリング部を創設した。国体へ向けて周囲のサポートはあったが、レスリングのことを知っている人は少ない地域。「選手を集め、レスリングを広めるのは大変でした」と振り返る。

三村監督の原点、網野高での練習風景=1993年11月

 当時は「学校対抗戦で全国大会に出よう」との気持ちより、「地元国体で一人でも多くの上位入賞者を出そう」といった気持ちだった。国体での結果は、フリースタイルとグレコローマンで1選手ずつ2位を輩出。京都府が天皇杯を受賞することができた。レスリング未開の地の、スカウト制度もない公立高校でここまでの選手を育てたのだから、指導力は卓越したものがあったのだろう。

 チームとしての最初の全国大会は、国体の半年後の1989年3月にあった全国高校選抜大会。「初戦が霞ヶ浦でして、1-6。勝った1試合はフォール勝ちだったんですよ」と、その時の結果と内容がすらすら出てくるのだから、かなりの思い出のようだ。

全国初挑戦は王者・霞ヶ浦から1勝をマーク

 同時に、抜本的な強化を目指してキッズ教室を創設。高校のレスリング場を使っての選手育成を始めた。その一期生にいたのが井上謙二(現在の日本協会・男子フリースタイル強化委員長)。高校で三冠王者に輝き、日大~自衛隊で順調に実力を伸ばして2004年アテネ・オリンピックでは銅メダルを手にした。

京都・網野高時代。後列左端が三村監督。網野キッズ教室の第一期生、井上謙二もいる(中列左から2番目)=1993年11月

 世界チャンピオンに輝くことになる正田絢子と伊調千春(アテネ&北京オリンピック銀メダル)、史上初の高校8冠王者に輝いた松本真也も三村監督の教え子。

 それだけの指導手腕を発揮した三村監督だが、実は京都国体が終わった後、“お役目御免”とばかりに、実家のある京都市に戻ることを考えていたという。ところが校長先生から「レスリングで地元を盛り上げておいて、それはないだろう」と一喝され、思いとどまった。気持ちをあらため、一貫強化を目指してキッズ教室をつくったのだと言う。

 校長先生がレスリングへの情熱を持っていなければ、のちの世界チャンピオンやオリンピック・メダリストが生まれたかどうかは分からない。

荒れていた高校に赴任、クラブの活性化で立て直す

 選手を強化するとともに、若い指導者も育てた。現在の吉岡治監督。京都国体の時は網野高の一選手として大会の補助員をやっており、チームが全国初出場を遂げた時のメンバーだ。福岡大を経て網野高にUターン赴任。2003年にバトンタッチ。自身は宮津高へ転勤し、慣れないボート部でインターハイ出場を成し遂げたあと、当時、荒れていることで有名だった海洋高へ赴任してレスリング部を創設することになった。

海洋高の監督としてチームを見守る三村監督=2009年全国高校選抜大会

 この時は、校長先生から「クラブの活性化によって学校を立て直してほしい」と校内の綱紀粛清を頼まれ、「それならやってやろう」と引き受けることを決意。京都府の人事異動における公募制度(フリーエージェントのような制度)を利用して希望転勤した。

 どんなに荒れていても、教師が生徒に手を上げてしまっては問題となる時代。規律ある授業と愛情ある生徒指導によって、荒れた生徒たちは真面目な生徒を軸として沈静化。その結果、京都府初のエキスパートティーチャーとして認定されたほど。

 「規律の順守を徹底的にやりました」。クラブ活動でも、練習のさぼりや校則違反で退部する選手もいて、対応に苦しんだ時もあったが、丹念に向き合い、ひとつずつ解決していった。

《続く》







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