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2021.02.13

【特集】最強チームでレスリングをやり遂げた自信と誇りを胸に、リングで飛躍を目指す…芦野祥太郎(東京・自由ヶ丘学園高~日体大OB)-《上》

 

レスリング時代の思い出と将来の夢を語ってくれた芦野祥太郎(日体大OB)

 1月24日、東京・後楽園ホールでの全日本プロレス大会。三冠ヘビー級王座を防衛した諏訪魔(本名・諏訪間幸平=中大~クリナップOB=2003年世界選手権出場)が挑戦者について、しみじみと言った。「ハートが熱いヤツなんだよな。小細工しないし。それはやはり、日体大レスリング部って感じだな。気持ちがいいよね。強いよ」-。

 全日本プロレスのエースにこう言わせた選手とは、芦野祥太郎、31歳。プロレスラーにあこがれて東京・自由ヶ丘学園高校からレスリングを始め、日体大レスリング部を経て夢を実現させたプロレスのキャリア6年の選手だ。所属していた武藤敬司率いるWRESTLE-1が昨年3月に活動を停止し、フリーの選手として全日本プロレスのリングへ上がることになった。

 そこで、レスリングの先輩でもある諏訪魔の目にとまり、タイトル挑戦の位置まではい上がった。新日本プロレス、全日本プロレス、ノアのいわゆるメジャー団体の選手ではなかったので、全国的な知名度は今ひとつだが、レスリングで鍛えた基礎にものを言わせ、WRESTLE-1では王者に君臨する活躍。全日本プロレスのリングに移って脚光を浴びたのは、当然のなりゆきかもしれない。

獣神サンダーライガーにあこがれ、プロレスラーを目指す

 芦野は「全日本プロレスで闘うようになって、注目度が違いますね。(王座挑戦は)もう1回あるでしょう。下からはい上がりますよ。下から…」ときっぱり。日体大で培った負けじ魂を胸に、プロレス界のエースを目指す気持ちにあらためて火がついた。

120kgの諏訪魔をジャーマンスープレックスで投げる芦野=1月24日、後楽園ホール(撮影=山内猛)

 諏訪魔が芦野に目をつけたのは、「レスリング~馳浩(日本協会副会長)の斡旋~武藤敬司の指導を受けた」という経歴が同じということもあるだろうが、それだけではあるまい。プロレス専門サイトには、実際に闘ってみたうえで感じた芦野の潜在的な実力をたたえる言葉が続く。

「芦野の何がすごいかって、身体能力がすさまじいよ。レスリングのベースにある無尽蔵の体力と、あと、強くて絶対に譲らないハート。ああいうプロレスはレスリングやっていた人間にしか絶対にできない。(日体大という)日本一厳しいとこでやっていたっていうことは、オレにも劣らないことをちゃんとやってきているヤツなんだ」(バトルニュース)

 プロレスラーへのあこがれは、小学校2年生の時に獣神サンダーライガーのファイトを見たことに始まる。「コーナーからの空中殺法がすごかったですね」。当時の新日本プロレス中継は深夜で、普通なら目にすることはなかったかもしれないが、父の実家の北海道では昼間放映されていた。父と北海道へ行った時に目にし、引きつけられたという。“運命”とは、えてしてこんなものだろう。

 それからはビデオでのプロレス観戦に熱が入った。スカイパーフェクTVでWWEの試合も知り、「プロレスをひたすら見ていました」。プロレスラーになりたいと思ったが、当時は周囲にレスリング道場はなく、中学までは剣道で体を鍛え、自由ヶ丘学園高校に進んでからレスリングをやることになった。

強豪ぞろいの日体大だが、体力トレーニングはついていけた

 監督は1992年バルセロナ・オリンピック代表の奥山恵二氏(日体大OB)。「プロレスラーになるためにレスリングをやりたい」と伝えたところ、「プロレスラーは何人も知っているぞ」と励まされた。新日本プロレスの永田裕志は日体大の同期生であり、中西学(引退)や本田多聞(ノア~フリー)はバルセロナ大会のチームメートだ。

日体大同期の泉さんは選手生活からの引退後、芦野に挑んだ(詳細はyou tube参照)=泉さん提供

 だからといってプロレス流練習をやっていたわけではない。レスリングで強くなるための練習の毎日。関東高校大会で優勝し、全国高校生グレコローマン選手権でベスト16の成績。2008年4月に日体大へ。「実は、日体大は怖い、というイメージがありまして…」。高校の古里光弘部長(日体大OB=現日本協会理事)に希望大学を聞かれて別の大学を答えたところ、「強くなりたくないのか?」と聞かれた。「なりたいです」と答えたら、「日体大だ」と言われ、「はい」と答えたとか。

 プロレス志望であることは、当時の藤本英男部長にも松本慎吾コーチ(現監督)にも伝えた。「まずレスリングをしっかり頑張れ」と言われ、「チャンピオンを目指す気持ちで練習に取り組んでいました」と言う。同期には、2017年にアジア王者に輝きオリンピック候補選手だった泉武志さんがいた(関連記事)。泉さんは「学生の頃から、ずっと『プロレスラーになる』と言っていました」と振り返る。

 日体大では、周囲は全国トップの選手ばかり。自分の階級(グレコローマン74kg級)には学生王者の金久保武大(2010年世界5位)がいて、厳しい練習だった。だが、ランニングでも筋力でも体力はあり、「体力トレーニングでは負けない」という気持ちで臨み、ついていった。ロープ昇りが1時間も続く練習もあったそうだが、これもきちんとこなせた。

日体大レスリング部の「あの時代があるから、今の自分がある」

 「練習がきつくてやめたいと思ったことはないですね」と言うから、体力はあった。高校の監督が日体大OBだったので、「高校の練習が日体大式。それを3年間、やってきましたから」とも振り返る。だが、筋肉がつきにくい体質だったことと、レスリングでは筋肉のつきすぎはよくないので、なかなか体重が増えない、増やせないという悩みもあった。

日体大時代の貴重なスナップ写真。中央が芦野で、当時からプロレスラーを目指していた(左は泉武志さん、右は大学王者に輝き現在も現役の富塚拓也)=泉さん提供

 日体大の厳しさのひとつを話してくれた。自身にとっては最後の大会となった4年生の全日本学生選手権。1回戦で、アクシデントで鼻骨を骨折。マットが血だらけになるなど出血も止まらず厳しい試合となったが、何とか勝って2回戦へ。痛みをこらえて闘って勝ち、3回戦へ進んだが、途中で再度の出血が止まらず、残念ながら黒星。満身創痍で松本監督に報告に行ったところ、「(骨折を)負けた言い訳にするな」-。

 「さすが日体大だな、と思えることですね」。骨折しようが勝ちを求める、どんな理由があっても負けは負け…。メダルを取る成績は残せなかったが、日体大のレスリング部で「根性を学んだ。あの時代があるから今の自分がある」と、しみじみ振り返る。《続く》

 







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