フランスの女子レスリングは1972年にスタートした。10年後の1982年には女子レスリングに関する国際会議がフランスで開催された。出席したのはフランス、ベルギー、ノルウェーの3ヶ国。2年後の1984年に初めての国際大会がノルウェーで開催。ノルウェー、フランス、スウェーデンから約40人の女子レスラーが参加。ルールはグレコローマンだった。
福田富昭さんは言う。「フランスの女子レスリングには10年の歴史があると聞いて驚いた。自分は何も知らなかった。日本が遅れていることを実感した」
帰国した福田さんは「日本でも女子レスリングを始めるべきだ」と主張したが、協会内で賛同は得られなかった。ここからが福田富昭の真骨頂だ!「魂の塊」「高い理想、厳しい現実。しかし決してあきらめない」
福田富昭が動く! マスコミを味方につける。
その当時、日本レスリング協会広報委員長の宮澤正幸さん(拓大OB、拓大レスリング部元監督、日刊スポーツ記者)が自分と同じ考えを持っていることを知った。宮澤正幸が動いた。
「1985年、フランスのクレルモンフェランで開かれる国際大会に、宮澤正幸が選んだ柔道三段の高校体育教師、大島和子が日本女子レスラーとして初めて出場した。参加国はフランス、ベルギー、日本の3ヶ国、小さな国際大会だった。日本の大島和子はフランス、ベルギーの選手と2試合戦った。試合時間は2試合トータルで1分もかからないうちに負けた。柔道とレスリングは違う。柔道ではなくレスリングをやらねばない。
大島さんも悔しかっただろう。自分も彼女以上に悔しかった。八田一朗会長が柔道からレスリングと出合い、日本でレスリング協会を始め、大変苦労された。その八田一郎さんの苦労がわかるような気がした。フランス・レスリングの歴史は長い。この歴史を破るために、これから日本女子レスリングの世界制覇までの長い長い日々が待っている。今まさに、日本レスリングの歴史の第一歩が始まったのだ」(1985年の国際女子レスリング大会報告書)
日本で女子レスリング選手が一人もいない状態から、「日本女子レスリングは世界制覇を目指す、俺がやる!」と福田富昭は心に誓った。そのあとの日本女子レスリングの活躍は皆さんご存知の通りだ。
日本女子レスリングのスタートは、1985年のフランスの小さな国際大会だった! 今から何と36年前のことだ。人に歴史あり、日本女子レスリングに歴史あり。
今や押しも押されもしない日本女子レスリング。日本を王座から降ろそうと、ライバル各国は打倒日本で来ている。各国は本当に日本選手を研究している。その成果が出て各国は大会ごとに強くなってきている。
1988年ソウル・オリンピック。あらゆる競技を通じて日本はなかなかいい結果が出なかった。結局、日本は4個の金メダルに終わった。水泳1個、柔道1個、そんな中、レスリングは2個取った。フリースタイル48kg級の小林孝至と52kg級の佐藤満。2人が、日本の意地をソウルのマットで見せてくれた。
実況放送席で2人の男がガッチリ握手をした。その2人は誰だ。
実況アナウンサーの松永二三男、解説の福田富昭さん。
松永二三男、アナウンサー人生最高の金メダル中継となった。
解説福田富昭さんは、「心と心をつなぐ、何があってもあきらめない、魂の塊」。そして「日本女子レスリングの父」。福田富昭さんは、いつも人と人を結んでくれる人だ。長い長い間。日本レスリング協会の会長、お疲れ様でした。ありがとうございました。
《参考文献》福田富昭著「勝利はいつも美しい」/柳澤健著「日本レスリングの物語」