福田青年は怒っていた。「一体、どういうことだ!」 日本中が東京オリンピックに沸いた1964年(昭和39年)、日大3年時にレスリング部の主将を任された。絶対に強くすると意気込んでいたのに、江古田の寮で下級生からとんでもない報告を受けた。
「八百屋が『日大レスリング部にはもう売らない』の一点張りなんです」。聞けば、肉屋も酒屋も銭湯も居酒屋もだ。なんでも先輩たちはこれまで「はい、ツケ! ツケ!」で金を払わなかったという。
ガタイがよく、耳のつぶれた男たちに強く出られては、店主は何も言えなかったのだろう。貯めに貯めたツケは5、6年間に渡り、1件あたり数万円で総額90万円。当時はラーメン一杯60円の時代。現在の価値に換算すると、1000万円近い大金だ。商店街の店主たちも、ついに堪忍袋の緒が切れた。
部員は当時、50人ほどの大所帯だった。福田青年は持ち前の行動力で、学生ながら勧誘を担当していた。監督は日大の教授だが、レスリングの門外漢。練習に来たこともなかった。代わりに北海道から九州まで、高校の先生方に頭を下げて回った。
あとは監督に「この選手を取ってください」と頼めば、「分かった」と応えてくれていた。1年生だけで約30人いた。
せっかく部が勢いづいてきたのに、飯も風呂もなければ強くなれるわけがない。福田青年は一軒一軒商店を回り、「必ず、完済しますから」と頭を下げた。寮で下級生を集め、事情を説明。オフシーズンを前に「これから、おまえたちにはアルバイトをしてもらう」と宣言した。
アルバイト先は自分で見つけてきて、割り振った。不二家のケーキ職人、おでん屋の店員、道路工事…。総力戦だ。奮闘のかいあり、わずか2ヶ月余りで商店街すべての借金を返済。食料も風呂も確保し、練習に精を出すことができた。
寄付金集めもした。卒業生の先輩一人ずつ直接訪問。「少しでもいいので寄付してください」とお願い行脚だ。自作の表には「誰さんはいくら」と書き込んである。後輩に頼まれれば、先輩も断れるはずがない。みな出してくれた。
福田青年が強くした日大は、1963年(昭和38年)に続き、1965年から69年まで全日本学生王座を制した。
「私にはバックするギアがない」。福田・前会長の口ぐせだ。動くのは前進だけ。ブルドーザーのように突進する行動力で、日本スポーツ界を動かしてきた。どうしてここまでリーダーとしての資質が身についたのか。疑問に思い、若い頃の話を本人や関係者に取材すると、今と全く変わらない、規格外のパワーを持つ高校、そして学生時代の姿があった。
富山・滑川高校でレスリング部の主将を務めた時には、自分を含め、4人しか呼ばれていなかった東京の全国高校生合宿へ、教師に内緒の主将判断で、さらに部員4人を連れていった。都会のセンスのいい指導で強くなってほしかったからだ。
先に到着した宿舎をこっそり抜け出し、別車両で到着した仲間を上野駅まで迎えに行く大胆さ。後に日本協会から高校へ送られた請求書の人数が多いことでばれ、大目玉を食らった。
遠征費が足りなければ、市役所へ「支援をお願いします」と寄付を募った。もちろん、自分の分だけではなく、部員全員分。これだけ動ける高校生は、昨今どれだけいるだろうか。
自分で考え、いいと思えば失敗を恐れず即行動。自分のためではなく、仲間のために動く――。幼くして戦争で父を亡くし、疎開先で3人の男の子を必死に育てる母を助けたい気持ちと、天賦の才能が相まって「人間ブルドーザー」ができたと今では推測している。
日本レスリング界に残した福田富昭・前会長の功績と同様、〝福田青年〟の足跡も、ここに残したい。