私をレスリング取材に導いてくれた恩人の名を挙げるとするならば、間違いなく福田富昭会長(正確に記せば前会長であるが、今回はあえてそう書かせていただきたい)である。
学生時代、週刊プロレス編集部でアルバイトしていた私は、当時月刊で発行されていた女子プロレス専門誌「デラックスプロレス」の編集にも携わっていた。同誌編集長から、その巻末にあるモノクロページに「何か女子プロレスに関連するものを書いて」と頼まれた。
当時の女子レスリングは選手不足を埋め、話題性を確保するため女子プロレスラーの卵を積極的に大会に出場させていたので、取材対象として問題はなかった。
そこで、不定期ながら同誌で女子レスリングのルーツともいえる代々木クラブなどの記事を書かせてもらうようになった。読み返してみると恥ずかしいクオリティながら、20歳そこそこの筆者には精一杯の記事だった。
福田会長と話をするようになったのは、そんな女子レスリング黎明期の取材を通してだった。福田会長は周囲の者を有無を言わせず引き込む力を持ち合わせている人だった。
当時の女子レスリングは海のものとも山のものともつかぬ競技だった。レスリング界には、女子レスリングに対して偏見の眼差しを向ける者もあまたいたと記憶している。女子プロレス専門誌の記者の目線で言えば、女子プロレスラーになりたい人の登竜門にすぎなかった。
それでも、福田会長は「これからは女子の時代が必ず来る」と語り、女子レスリングを拡大する構想を熱く語っていた。これまでの記者人生で、引き込む力を有した卓越した指導者を挙げるとするなら、アントニオ猪木、石井和義、佐山聡の名前が思い浮かぶ。私の中で福田会長は猪木らと同一線上に並ぶ、尋常ではないほどの引き込む力を有した人だった。
夢やロマンを語ることはたやすい。しかしながら、それを実行し続ける人は少ない。資金だけではなく、協力してくれる人力も必要なのだから当然だろう。その意味で福田会長は女子レスリング界にとっては名プロデューサーだったのではないだろうか。
福田会長が周囲の反対意見を振り切るように女子の発展に尽くさなければ、今日の日本女子レスリングはなかっただろう。福田会長の力がなければ、地上波のいい時間帯で女子レスリングが放送されることもなかっただろう。
福田会長の何十分の一の熱量だと思うが、筆者の女子レスリング熱も高まり、2008年には「吉田沙保里 119連勝の方程式」新潮社刊)を書き下ろした。
幸運なことに、同作品はミズノスポーツライター賞優秀賞に選ばれた。授賞式には福田会長も出席しており、「レスリングのことを、吉田沙保里のことを書いてくれて本当にありがとう」と肩をたたいてくれた。あのときの福田会長の笑顔は忘れられない。
2016年リオデジャネイロ・オリンピックでは、試合のなかった昼間に福田会長と2人で話す機会があった。そのときは「ボ~ッとしている時間がもったいないので、女子レスリングの歴史について自分なりに書いている」と、達筆の原稿を見せられたこともいい思い出だ。
そのときの原稿は、オリンピック後に非売品として印刷され、一部の関係者に配布された。筆者にとっては宝物だし、翌年上梓した「なぜ日本の女子レスリングは強くなったのか 吉田沙保里と伊調馨」(双葉社刊)の格好の参考資料となった(福田会長の本はオークションに出品されたら高値で取引されるのではないか)。
女子レスリングついて、「もっと書きたい」「もっと知りたい」、そう思うようになったのは間違いなく福田会長の引き込む力のおかげだと思う。引き込まれたまま、筆者はいまも女子レスリングについて頻繁に記事を書いている。
なんて幸せなことだろうか。福田会長から感染した熱はまだ下がりそうもない。