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2022.01.04

【新春対談(4)】ライバル同士が食事して記念撮影……信じられない!…富山英明会長&日本陸連・瀬古利彦副会長

 

《第1回》 《第2回》 《第3回》

(司会=布施鋼治 / 対談撮影=保高幸子)


誹謗中傷の記事は、しっかりと「シャットアウト」

── ネット社会には大きな課題が出てきました。特定の個人に対する誹謗中傷です。

富山 誰でも簡単に個人に対して罵詈雑言を浴びせられる。

瀬古 そういうネガティブな書き込みは観なければいいのに、観てしまう。そこは気をつけないといけない。陸連は本人に任せている。こっちから何かアドバイスするにしても、『観ないように』と言うしかない。

本協会もSNSに取り組んでいるが、心ない書き込みもあり、対策が急務となっている

富山 現役の頃、ネガティブな記事に対してどう対処していたの?

瀬古 (キッパリと)見ないようにしていました。見たら気になるのでシャットアウトです。ただレースが終わったら、じっくり読むんだけどね(笑)。今の選手もシャットアウトはできるでしょう。スマホを見なければいいだけの話ですから。

富山 とにかく1日中、トイレに行くときもスマホを手にしているよね。依存症の世界ですよ。

── スマホを見る姿勢のせいで、何十年か後には人間の骨格が変形するという話もあります。

富山 目にもよくない。スマホを見るより星空を眺めていた方が絶対いいと思うんだけどなあ。

瀬古 ケニアの人も、昔はみんな目が良かったらしいけど、いまはどんどん悪くなっているみたいだよ。全部スマホのせい。昔は1~2㎞先のウサギの姿が見えるとか言っていたからね。知り合いのケニア選手は、新幹線の中から「富士山の頂上で旗を振っている人が見える」って言っていたよ。

富山 さすがにその話、盛っている(大げさにする)でしょう!(笑)

瀬古 本当だって! 「富士山で旗を振っている人が2人います」と言っていたんだよ。もちろん私の目には見えないんだけどさ。

ライバルとは背中を向け合い、しゃべったこともなかった!

── SNSは、自ら発信することができます。中には、克明に自分の練習をアップしている選手もいますよね。

瀬古 悪いとは言わないけど、ライバルも見るかもしれないのに、自分がこんな練習をしたとか載せるのはナンセンスだと思う。それで手の内が分かってしまうじゃないですか。今の子はあまりウソを書かない。正直な面が仇(あだ)になっているんじゃないかな? あれはどうかと思いますね。

富山英明(とみやま・ひであき)1957年11月16日、茨城県茨城町出身。日大3年生で全日本選手権と世界選手権を制し、1984年ロサンゼルス・オリンピックで優勝。その後、指導者として日本を牽引。2001~2008年に日本協会強化委員長。今年10月、協会の会長へ就任。

富山 日記感覚で書いているんだろうね。昔は自分の秘密は表に出さないという不文律があった。今は、「個人情報はデリケートに扱わないといけない」と言いながら、自分ではどんどん発信している。変な時代だよ。

瀬古 信じられないのは、ライバル同士が一緒に食事をして、その写真をパチッと撮ってSNSに上げていること。正直驚いた。私は現役時代に、(世間からライバルと目された)宗兄弟(茂・猛)としゃべったこともなかったよ!

富山 宗兄弟とは仲がよかったんじゃないの?

瀬古 仲いいわけがないじゃないですか!(笑)

富山 失礼しました(笑)。

瀬古 しゃべると情が移ってしまうので、お互い背中を向けている関係がちょうどいい。それが師である中村清監督の教えでした。宗兄弟は「瀬古は、何を考えているかわからない」と不気味に思っていたらしい。仲がいいと、「瀬古だって普通の人間。大したことはない」と安心してしまう。ライバルに対してはミステリアスなムードを残していた方が絶対にいい。それは外国人選手に対しても絶対にいえますよ。

── 近寄りがたいムードが必要なわけですね。

瀬古 富山さんも現役時代は怖かったよ。昔、代々木公園で会ったときのことを覚えている?

富山 いつも言うね、その話。

富山会長がランニングで瀬古副会長に挑んだ東京・代々木公園

瀬古 走っていたら、よく会うんだよ。一度、急に方向転換したと思ったら、私のあとをついてきた(笑)。

富山 「おっ、瀬古じゃないか」と思ったので、追い抜いてやろうと思ったんだよ(笑)。マラソンランナーはどれくらい速いのか、自分で体験したくなってさ。

瀬古 横に来て競争を仕掛けてきたよね? ちょっとペースを上げたら、ついて来られなかったので安心したよ(笑)。

富山 並走したと思ったら、スーッといなくなる。あのときは「やっぱり本職だな」と感心したよ。現役時代、日大レスリング部の中で一番足が速かったんですよ。

瀬古 あの頃の富山さんは、目が本当に怖かった。会話なんてできる雰囲気ではなかった。顔と顔を合わせても、あいさつもしなかったね。こっちはこっちで一生懸命走っているわけだし、お互い気をつかっている暇なんてなかった。

「修行僧」と言われていた瀬古副会長の現役時代…現実は?

── いつ頃から声を掛け合う仲に?

瀬古 (1988年の)ソウル・オリンピックが終わって…。

富山 太田章(1984年ロス&1988年ソウル大会銀メダリスト)が早稲田大学で瀬古さんと同級生だったんだ。

現役時代は口もきかなかった両者。太田章氏の仲介で知り合い、ともに日本スポーツ界の期待を受ける立場となった

瀬古 そうそう、太田さんから「面白い会があるから、瀬古君も来て」と声をかけられたことがきっかけだ。その飲み会に富山さんもいた。

富山 それで新宿のKで会ったんだ。あの頃の瀬古さんは、「ポーカーフェースで何もしゃべらない」というイメージだった。実際に会ったら、そういうイメージとかけ離れていると思うくらいたくさんしゃべっていたので、びっくりしたんだよ。

瀬古 私は関西人(三重県出身)だから、関西のノリで根は面白い人間だと思うんです。中村監督がそれを封印した。ストイックな瀬古像を創っていたわけですよ。現役時代、修行僧と言われていたんだから(笑)。そんなキャラじゃないのに。

富山 確かにそう言われていたね。

瀬古 演じていました。主演男優賞をもらいたいくらいの演技に、宗兄弟もだまされていた。正直、素の自分を隠さないといけないのは辛かったですよ。中村監督との関係も、時間が経つにつれ疲れてきた。オリンピックは自分で自分を演じすぎてダメだったと思う(1984年のロス大会14位、1988年ソウル大会9位)。根がどんどん暗くなるし、人には相談できないし…。

ライバルにいかに勝つかを、四六時中考えないといけない

富山 あのときの瀬古さんには、中村清さんという指導者がいて、山下泰裕さん(現JOC会長)には佐藤宣践さんという先生がいた。僕には福田富昭さんがいた。福田さんは自由奔放で、強制することは一切なかった。どういう指導が正しい、はないと思う。その選手に合っていればいいんじゃないかと思う。

瀬古 個性は十人十色。私は中村監督と出会って本当によかったと思う。マラソンは、一人では限界がある。そういう私を支えてくれたという意味で、中村監督の存在は大きかった。

1983年12月、福岡国際マラソンで4度目の優勝を遂げた瀬古副会長を報じる朝日新聞。内外のマラソンで5連勝を達成した

富山 世界の頂点を目指すのであれば、ライバルにいかに勝つかを四六時中考えないといけない。冬の朝、「今日は寒いな」と、朝練習に行きたくない日もある。そういうときには、ライバルだったセルゲイ・ベログラゾフ(ソ連)が、今どうしているかを思い浮かべるようにした。「この程度の寒さだったら、普通に練習している」という感じでね。そうなると、布団から飛び起きないといけない。苦しいときであればあるほど、もうひとりの自分に勝たないとダメですよ。

瀬古 私もそうだった。「今頃、宗兄弟は厳しい練習をしているんだろう」と思いながら、宮崎・延岡の方の空を眺めていましたよ。

富山 延岡の空!

瀬古 本当ですよ。東京が冬の雨だったら、「走るのは明日にしようか」と一瞬気の迷いが出る。そういうとき、中村監督が「延岡は晴れているぞ。宗兄弟はいつものように走っている」と背中を押してきた。あとから、宗兄弟も同じようなことを言っていた、と聞いた。「延岡は雨だけど、東京は晴れている」とね。奇しくも同じことを考えていた。

富山 それだけ、ライバルの存在は大事なんだよね。

瀬古 絶対大事。いつの時代もそれは不変ですよ。ライバルが強いと、自分も強くなる。相手も強くなり、マラソン業界全体が強くなる。いいことだらけですよ。

《続く》







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