日本レスリング協会公式サイト
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2022.07.23

【歴史】日本レスリング界初の金メダル獲得から70年…1952年7月23日、石井庄八(中大OB)

 

戦後初参加のオリンピックで金メダルを取った石井庄八。日本レスリングの栄光は、ここから始まった

 「7月23日」といえば、2度目の東京オリンピックの開会式の日として、日本スポーツ界に長く伝わっていく“記念日”だが、日本レスリング界にとっても忘れてはならない日でもある。70年前の1952年7月23日は、ヘルシンキ・オリンピックの男子フリースタイル57kg級で石井庄八が金メダルを獲得した日だ。

 第2次世界大戦を経て、国際スポーツ復帰が認められた日本が出場した初めてのオリンピックがヘルシンキ大会。12競技72選手が参加したこの大会で、あらゆる競技を通じて、唯一金メダルを手にしたのが石井庄八。以来、日本レスリングは、不参加だった1980年モスクワ大会を除き、昨年の東京オリンピックまで17大会連続でメダルを取り続けている。

 敗戦に打ちひしがれていた日本国民に夢と希望を与え、日本レスリングの栄光の礎(いしずえ)となった石井庄八とは? 


八田一朗会長も帯同した約3ヶ月の米国遠征で開眼

 敗戦直後の日本は、占領軍によって柔道、剣道などの「軍国スポーツ」が禁止され、柔道選手の多くがレスリングに取り組んだ。1926年9月20日、千葉県で生まれた石井も、中学時代までは柔道の選手だった。戦争から帰り、中央大学(中大)に進んでレスリングを始め、1950年に全日本選手権2位。翌年2月から5月まで、八田一朗会長も参加した米国遠征で実力を伸ばし(対抗戦は22勝1敗と伝わっている)、同年の全日本チャンピオンとなり、ヘルシンキ・オリンピックの代表になった。

1952年ヘルシンキ・オリンピック代表選手。右から2人目が石井庄八

 レスリング競技において、戦後の世界大会は1948年のロンドン・オリンピックが最初だが、日本は参加が認められなかった。世界選手権は1951年にスタートしたものの、日本は参加していない。

 どの日本人選手にとっても初めての世界挑戦だったヘルシンキ・オリンピックで、石井は7試合を闘い、7戦全勝の成績。当時はバッドマーク方式が採用されており、判定勝ちでも「罰点1」。この罰点が「5点」になると、勝ち進んでいても失格となる、今では理解しづらいルールだった(フォール勝ちは罰点「0」で、フォール勝ちに絶対の重きを置いていたゆえのルールだった)。

 石井は6回戦でジャダフ(インド)に判定勝ちしたが、単純に計算するなら、この時点で罰点が「5」だった(負けたジャダフは「7」、ソ連のラシド・マメデベコフは「4」)。しかし、オリンピックの前年にルールが変わっており、最後に残った上位3選手のリーグ戦における結果で順位を決めることになっていたのが幸いした。残っていたのが、石井、ジャダフ、マメデベコフ。未対戦だった石井とマメデベコフとの7回戦が実質的な決勝へ。

 試合内容については、「終始攻めて圧勝」「一進一退の攻防の末、終了間際の連続タックルが決定的なポイントとなり」の2説があり、動画もないであろう70年前の事実を突き止めるのは不可能だが、記録は判定勝ち(当時は、現在の柔道のように審判が旗を挙げて勝敗を決めるルール。3-0で石井が勝者となった)。三者リーグで2戦2勝の石井の優勝が決まった。

 【ヘルシンキ・オリンピックでの石井庄八の成績】
1回戦 ○[判定(3-0)=罰点計1]Jaskari, Tauno(フィンランド)
2回戦 ○[フォール、7:35=罰点計1]Irvine, Ken(英国)
3回戦 ○[判定(3-0)=罰点計2]Saribacak, Cemil(トルコ)
4回戦 ○[判定(2-1)=罰点計3]Schmitz, Ferdinand(ドイツ)
5回戦 ○[判定(3-0)=罰点計4]Vesterby, Edvin(スウェーデン)
(以後、三者リーグ=インドとソ連は5回戦で対戦済みで、ソ連が勝利)
6回戦 ○[判定(3-0)]Jadav, Kha-Shaba(インド)
7回戦 ○[判定(3-0)]Mamedbekov, Rashid(ソ連)

帰国の羽田空港では、係員も制止できない熱狂の歓迎

 戦後のオリンピックで、初めてメーンポールに揚がった日の丸を見て、石井は「とめどなく涙が流れ、私も一緒に天に昇っていくような気がした」とコメント。海外渡航が簡単にできない時代だったが、日本からも何人かが応援に駆けつけており、「日本から来た人たちが一生懸命に応援してくれたので、勇気百倍でした」とも話している。

ヘルシンキからの帰途、英国で地元BBC放送の番組に出演した石井(右)。左は銀メダルの北野祐秀=提供・八田忠朗

 当時の新聞には、「帰国の際、羽田空港には中大の応援団ら約100人が集まったほか、レスリング関係者や親族などが集まってロビーに入り切れないほどのフィーバー。係員の制止も役に立たず、胴上げが始まるなど戦後初のヒーローは熱狂的な歓迎で迎えられた」と描写されている。

 その後は指導の道に回り、中大監督として笹原正三(1956年メルボルン大会優勝=日本協会・元会長)、池田三男(同優勝)、渡辺長武(1964年東京オリンピック優勝)らを育成。勤務した電通では、担当した株式会社明治乳業(現明治)と日本協会との関係構築に貢献し、東京オリンピックへ向けての同社の日本協会への全面協力を取り付けた。

 石井は1980年1月4日、腎臓がんのため53歳の若さでなくなった。株式会社明治は、「明治杯全日本選抜選手権」を特別協賛するなど、現在もメーン協賛企業として日本協会を支えている。石井の遺産はしっかりと受け継がれている。

▲母校・千葉高校(当時千葉中学)に飾られている顕彰碑=撮影・武田三千男







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