(注)全日本マスターズ選手権に関する記事は、通常、敬称をつけていますが、井上智裕選手の場合、全日本のトップ選手であり、今後も全日本選手権や国体等に出場する可能性のある選手ですので、敬称は略します。
35歳にして、男子グレコローマン72kg級の全日本選手権、全日本選抜選手権、国体を連破した“鉄人”井上智裕(FUJIOH=神奈川大コーチ)が、1月22日の全日本マスターズ選手権(千葉・佐倉市民体育館)へエントリー。世界ベテランズ選手権優勝という目標に向けて動き出した。
2016年リオデジャネイロ・オリンピックの男子グレコローマン66kg級5位。昨年から今年にかけて全日本の2大会を制し、世界選手権の出場権を手にするなど(注=最終的には辞退)、その強さは健在。前年の世界選手権代表が全日本マスターズ選手権に出場するのは、大会史上初めてだ。
「今は、楽しんでレスリングをやっています。勝ち負けは別にして、一生懸命にやって結果が残ればいいかな、と思っています」
すでに“レスリングが仕事”という状況は終わり、平日は富士工業の一般社員として勤務し、神奈川大の練習に参加するのは週末のみ。学生選手への指導もあり、がむしゃらに勝ちに行く状況ではない。昨年、世界選手権の出場を辞退したのも、こうした環境下では世界で勝つことに集中できないからだ。
「出るだけでいいのなら、出たと思います。日本代表なら、勝たなければならない。日の丸を背負って出るだけの覚悟ができないので、辞退させていただきました」
全日本マスターズ選手権はフリースタイルで実施される。井上は、高校を卒業したあとはグレコローマンに集中していた。フリースタイルの出場は、兵庫・育英高で教員をやっていた2012年の全日本社会人選手権があるだけで、10年半ぶりの出場。神奈川大ではフリースタイルの学生選手の練習相手もこなしているとはいえ、「脚を取られてしまうと、対処できなかったりもします」と言う。
それでも、グレコローマンの強豪がフリースタイルに挑んでも強さを発揮することは、日体大・松本慎吾監督ら多くの選手が証明している。全日本トップレベルで通用するまでの選手は、そうそういないだろうが、全日本マスターズ選手権に出場する選手は、今の井上と同じで普通に仕事をしながらの出場という選手ばかり。「私のフリースタイルが通用してほしいです」と笑う。
もっとも周囲は、井上のような“現役の世界選手権代表”の参戦で、他の選手がけがを恐れて棄権してしまうのでは、と心配するほど。エントリーしたA(35~40歳)78kg級は、井上を含めて8選手が名を連ねる。恐れをなさずに出場してほしいが、その中に井上にとっては忘れられない選手の名前があった。
舞鶴クラブの岩井康輔さん(京都・網野高~山梨学院大卒)。2002年のJOCジュニア・オリンピックのカデット・フリースタイル58kg級で対戦し、中学3年生だった井上が「何もできずに」(本人談)テクニカルフォールで負けた相手とのこと。岩井さんは前年の全国高校選抜王者で、3ヶ月後のインターハイで優勝した強豪選手。井上は「21年ぶりにリベンジしたいです」と話す。
インターハイ優勝を目指していた岩井さんにとって、中学生との対戦は眼中になかったのだろう。井上と闘ったはっきりした記憶はないと言う。それでも、「覚えてもらえているのは光栄です」と話し、体調を整えて必ず出場し、井上の“ラブコール”に応えることを明言。
今は体育館勤務を普通にこなしながら、空いている時間を使って舞鶴クラブや網野高校で練習する程度。「練習の量が違いますよね」と話し、勝てるかどうかは別問題だが、「出る以上、負けるつもりでは出ません。真剣にやろうと思います」と話す。
“プロ活動”は終わったものの、全日本選手権に出場すれば優勝戦線に残るのは間違いない強さを持つ井上に対し、岩井はフリースタイル中心だった選手。下半身への攻撃に活路を見い出し、勝機をつかむことができるか。
オリンピック出場も果たしている井上を、ここまで駆り立てているものは何か。この問いには、年齢を重ねてもレスリングに携わっている人間に共通する「レスリングが好きだから」という言葉が返って来た。全日本マスターズ選手権に出場する選手は、だれもがこの思いで出場するのだろう。
井上は、可能性として、全日本選手権での親子対決の希望も口にする。中学1年生の長男・航平君が東京・高田道場でレスリングに取り組んでおり、これまでにも何度か会場に応援に来てくれている。「父親が頑張る姿を見せたい」という思いは、いつしか「親子で対決へ」と変わった。
2013年全日本選手権で白井正良さん・勝太(現クインテット=当時JOCエリートアカデミー)が大会史上初めて親子同時出場を果たし、1回戦で激突した例がある。稀(まれ)なことをやってみたい、という気持ちは、前向きに生きる人間ならだれもが持ち合わせている心理だろう。
自身が現役を続けていても、階級やスタイルが合わなければ実現しないので、その可能性がどれほどあるか分からない。さほど強い気持ちではないようだが、頑張る姿を見せたいという思いのもと、“鉄人”が全日本マスターズ選手権、さらには世界ベテランズ選手権での優勝を目指してひた走る。