It is in your moments of decision that your destiny is shaped(あなたの運命が形作られるのは、あなたが決断する瞬間だ)-。米国の自己啓発作家アンソニー・ロビンズの名言。人間の運命は、天から与えられるものではない。自分で決め、その目標に向かって挑むことで決まる。今、オーストラリアにオリンピックのマットに立つことを目指す“日本女性”がいる。
日本選手では初となる国籍変更を経てオリンピックに挑むのは増田奈千(ますだ・なち=30歳)。キッズ・レスリングの強豪、大阪・吹田市民教室でレスリングを始め、大阪・堺女子高、環太平洋大を経て、いったんはマットを去った。しかし、心の底にくすぶっていたレスリングへの思いが再燃。新天地でパリのマットを目指している。
増田の挑戦が、どんな結果になるかは分からないが、目標に向かって挑戦する姿は美しく、何ものにも代えがたい。発明王トーマス・エジソンは「成功の反対は失敗ではなく、挑戦しないこと」と言った。増田のオリンピック挑戦の結果が何であれ、「失敗」という言葉は当てはまらない。
“日本女子7人目”のパリ・オリンピック代表を目指し、オーストラリアにレスリングを根付かせる希望を持つ増田奈千の挑戦を追った(オーストラリアでは指導にも携わっていますが、選手活動を取り上げているので、敬称は略します)。
昨年10月、静岡県・焼津市で行われたフォーディズ杯全日本女子オープン選手権。かつて全日本選手権決勝の舞台で伊調馨と闘ったこともある増田奈千の姿があった。日本での試合は、2018年のこの大会以来。そのときは、オーストラリアで指導していた選手を出場させるために帰国し、ついでに出場した試合。
選手生活は、環太平洋大4年生だった2015年の全日本選手権を最後に引退していた(このとき、伊調と決勝で闘っている)。2018年の全日本女子オープン選手権は、現役復帰という意味はなく、ただ教え子が出場したついでに試合に出ただけだった。
今回の出場は、そのときとは大違い。来年のパリ・オリンピックを目指し、「今の実力がどれくらい日本選手に通用するのか」を試すための出場だ(65kg級)。結果は、1勝したあとの準決勝でインターハイ2位の北出桃子(愛知・至学館高)にフォール負けしての3位。8年前の「全日本2位」という肩書が通用するほど甘い世界ではなかった。
それでも、気分は晴れやかだった。「緊張もしなかったし、試合が楽しいと思えました。負けたらどうしよう、というプレッシャーもなかった。スタミナとパワーが足りないことが分かったことと、技術や動きはそんなに悪くなくて意外と闘えることが確認できましたから」
「試合が楽しい」とか、「負けたときのことを考えない」というのは、大学までの選手生活ではありえなかった感情だ。
キッズ・レスリングを席巻していた大阪・吹田市民教室の選手として、全国大会4連覇の実績を持ち、アジア・カデット選手権優勝(2010年)、世界ジュニア選手権出場(2013年)などすばらしい実績を持っているが、振り返ってみると、本心から「レスリングが楽しい」とか、「世界を目指す」という気持ちでマットに上がったことはなかった。
今は違う。もちろん、試合に臨むときは不安や緊張感、相手を恐れる気持ちはあるだろうし、勝つためには多くの困難が伴う。だが、周りから押し付けられて直面するものではなく、自分の意思による行動から来る困難だ。そう決意した人間に、怖いものはない。
「(日本での)現役時代は、もっと強くなりたい、という気持ちを持てなかったんです。今は違います。晴れの舞台に立ちたい、駄目でもいいからチャレンジしたい、という気持ちでいっぱいです」
大阪・吹田市民教室時代の増田は、3年生のときの2002年から2005年まで全国少年少女選手権を制した。2003年大会決勝では、日本女子初の米国学生レスリング界に挑戦した米岡優利恵(千葉・柏クラブ=2017年新春記事「挑戦はいつも美しい!日本女性として初めて“メジャー”の舞台へ挑む米岡優利恵さん」参照)と対戦したほか、地方の大会では伊藤彩香(三重・四日市ジュニア)や同門の坂野結衣(大阪・吹田市民教室)ら、のちに世界選手権に出場した選手とも対戦している。
増田は当時を、「最終的にはオリンピック、といった気持ちは毛頭なかった」と振り返る。「オリンピックの価値が分からなかったですから」。
キッズ時代は、「怒られるのが苦痛なので、怒られないように、怒られないようにと、先回りして行動していました」と言う。練習はつらいし、楽しくない。優勝した時のおねだり(漫画や服とか)を目当てにして続けた面が多く、「練習に行く度に、行きたくないな…、と思いながらでした」という毎日。
帰りの車中、父親から褒められる日もあった一方で、「今日の練習はあかんかった」などとダメ出しされることが多く、家に着くまでずっと練習の話をされて、「かなり嫌だった」といった日々だった。
中学でも全国大会2位の実績があり、最強の中京女大附属高校(現至学館高校)からのスカウトもあった。同期で、のちのオリンピック金メダリストの登坂絵莉(富山・高岡ジュニア)とはお互いの家に泊まり合って練習した仲。「一緒に中京へ」と誘われたこともあった。しかし、「親元を離れる勇気もなかったし、大阪を離れてまでレスリング続けたいと思わなかった。中京女大附属高校は、全員がオリンピックを目指しているイメージがあって、選択肢にはなかったです」と振り返る。