海外へ行く希望の実現のため、「1年半くらい満足に寝ていないくらい働いた」と振り返る日々。「自分でもよくやっていたなと思います」と、夢中だった当時を回想する。家族に対して公務員を辞めた後ろめたさみたいな気持ちのほか、お金を早く貯めて海外に行きたいという希望も、頑張りを後押しした。
資金もたまって、いよいよ海外留学を実現させることになった。オーストラリアに関心があったが、まず行った先はフィジー。いろんな資料を集めて調べ、割安な語学留学先として人気があったことと、フィジーからワーキング・ホリデーでオーストラリアに渡る人も多かったことで、同地を選んだ。2017年9月のことだった。
フィジーでの約3ヶ月の語学研修の間に思い出されたのが、レスリングに打ち込んだ日々。やめるタイミングを考えながら思い切れず、大学卒業できっぱりと別れを告げたはずのレスリングだが、離れてみると、その時代が無性に懐かしくなってきた。成績に未練があったわけではない。伊調馨にはどうやっても勝てなかったし、全日本選手権2位は満足できる成績だ。
「やめてから、かなり経っていましたけど、またやりたい、という気持ちが徐々に出てきました」。
ただ、最初から現役復帰を目指す気持ちはなかった。「オーストラリアにレスリングをやっているところがあれば、汗を流してみたい」くらいの気持ちだった。
同じ留学生がFacebookで仕事先を探していることにならい、「オーストラリア、レスリング」で探してみると、いくつかヒット。メッセージを送ったところ、1ヶ所だけ返信をくれ、いろんな格闘技ジムの代表によるグループチャットに入れてもらえた。「オーストラリアに行ったら、とりあえず見学に行ってみよう」という気持ちを持って2017年12月、ブリスベンに向かった。
たどりついた先では、まず農場でアルバイト。しかし、話が違ったので、大阪府警のときより早い5日でやめる大胆さ。「合わなければ、すぐにやめてしまうんです」。人生は限られているから、この生き方は決して間違ってはいまい。「生活を変えることを怖いとは思わないんです。行動力はある方だと思います」と自分の性格を分析する。
働かなければならないので、寿司店でアルバイトし、Facebookのグループチャットの一人が運営している総合格闘技ジム「ブラック・ドラゴン会」を訪れた。子どもたちにレスリングを教えてくれることと引き換えに、滞在費なしで3ヶ月、代表の家に住まわせてくれるという条件を受け、再びレスリングに接することになった。
それだけなら、オリンピックへの気持ちが出てきたかどうかは分からない。ジム代表の妻のジェシカ・ラバーズ・マクベインさんが柔術とムエタイの選手で、その練習の一環でやっていたレスリングにはまっていたことが、運命の分かれ道だった。40歳だったが、「東京オリンピック出場を目指したいので力を貸してほしい」と頼まれた。周囲にレスリングの技術を教えてくれる人がいなく、見様見真似での練習だったという。
一回りも年上の選手がオリンピックを目指して必死になっていて、その選手と練習する間に、増田の闘争本能に少しずつ火がついていった。「行けるわけはない」とあきらめていたオリンピックの舞台が、頭の中にちらつき始めた。
ただ、日本のレスリングの層の厚さに、そのときは選手としての出場までは考えられず、「ジェシカをオリンピックの舞台に立たせたい。そのコーチとして行ければいいかな」といった気持ちだった。
脳裏にあったのは、2016年リオデジャネイロ・オリンピックで吉田沙保里を破ったヘレン・マルーリス(米国)が、吉田のライバルだった山本聖子の指導を受けていたこと。「そんな立場で東京オリンピックへ行けたらいいな」という気持ちになり、ジェシカの指導に熱が入った。
2018年の世界選手権(ハンガリー)前には日本に連れて行き、全日本女子オープン選手権に出場させたあと、高校時代に練習したこともある大阪・大体大浪商高で練習を積ませてからハンガリーへ向かった。
ジェシカは、翌2019年にもスウェーデンやドイツの国際大会に出場して経験を積んだが、新型コロナウイルス蔓延のため、オリンピック予選に出場すらできずに晴れの舞台をあきらめることになった。
「2人で東京オリンピックへ」の夢は消えたが、40歳にしてオリンピックの舞台を目指したジェシカの生き様は、増田に大きな影響を与えた。
ジェシカはパリ・オリンピックを目指して選手活動を続ける意思を示したほか、世界レスリング連盟(UWW)のアスリートコミッションに須﨑優衣(キッツ)らとともに選ばれ、世界を舞台に活動することになった。
増田は、本来ならビザの問題で帰国しなければならなかったが、ジェシカとの二人三脚を続けたく、周囲の人の協力でタレント・ビザ(スポーツや芸術で国際的にすぐれた能力を持つ人に与えられる長期滞在ができるビザ)を申請。ジム代表の母が「伊調馨がいなければ、オリンピック金メダリスト」などと推薦してくれて取得できたが、その頃にはオーストラリア永住を決意。
指導者として晴れの舞台に立ちたい、という気持ちが、選手としてチャレンジしたいという気に変わった。国籍を変えてオーストラリア代表としてオリンピックに出場することを考えるようになり、国籍変更の行動に移った。
「レスリングを好きだって、やっと思えました。すべてがジェシカの存在あってのことです。やっぱり、私にはレスリングしかないんです」