思い続けていたオリンピックへの挑戦。2005年全国中学生選手権、2008年インターハイ王者の赤澤岳(埼玉・花咲徳栄高~日大卒、関連記事)は昨年12月、サモアへの国籍取得が認められ、同国選手としてパリ・オリンピックのアフリカ&オセアニア予選(3月22~24日、エジプト・アレクサンドリア)・男子フリースタイル65kg級に挑み、上位2選手を目指す。
現在は母校の日大で練習してエジプトへの出発に備えている。けがとの闘い、ロシアでの単身修行、簡単にはいかなかったサモア国籍の取得など、幾多の困難があった。それらを乗り越えてのスタートラインだけに、「待ち望んだ」という心境か? そうではなく、「緊張しています」という第一声が返ってきた。
勝つか負けるか分からない勝負の世界では、それが普通なのだろう。「いろいろ思うものがあって…。このためにやってきたわけで、今度の闘いですべてか決まるわけですから」。人生をかけての闘いは、そこまでの困難が大きければ大きいほど、緊張も高まって当然。「練習に行くときも緊張感に襲われています」と言う。
そのせいか、練習量を落としてもいい年齢(33歳)にもかかわらず、「休みの日は動けないくらいです」と言う。ただ、栄養や睡眠の知識も学び、若い頃に比べてコンディショニングに対する意識は高まっていて、体調を崩すことは少ない。
2月初めのオセアニア選手権は、力試しの意味もあってグレコローマンにも出場。見事に優勝したが、その試合の1回戦でろっ骨を負傷。大会の最終日にあった本命のフリースタイルでは力が出ず、初戦の途中で大事をとって棄権した。
グレコローマンは、サモア・レスリング協会の会長から「金メダルを2つ取ってきてくれ」と頼まれて出場した。甘い気持ちで出たわけではないが、グレコローマン専門選手のローリングのきつさは想像以上。かろうじてその試合をフォールで勝ち、その後も勝ち抜いて金メダルを取ったが、フリースタイルでの優勝は断念せざるをえなかった。
最後の実戦練習ができなかったが、過ぎたことを悔やんでも仕方ない。すぐに日本へ移動し、けがを治しつつ母校の日大で練習を開始した。日本での練習は、同じくらいの階級の選手と練習できる好材料がある。
というのも、サモアのレスリング選手は体が大きい選手ばかり。オセアニア選手権のグレコローマン97kg級で優勝して同じく予選に挑むマウラオ・ウィリー・アルフィポが小さい部類の選手。練習相手はもっぱらヘビー級の選手だ。パワー対策にはなるだろうが、やはり同階級との練習が必要。日大での60~70kgの選手との練習は、構えやスピードがいつもと違い、1ヶ月以上練習して「やっと慣れました」とのこと。
予選の出場が見込まれる選手の研究も怠りない。アフリカもときに強い選手が出てくるが、この階級に限れば、世界トップ級の選手は見当たらない。かなり有利と思われる状況だが、オセアニア選手権の同級で優勝した元ロシアのジョージ・オコロコフ(オーストラリア)が壁となりそう。レスリングの盛んなヤクーツク出身で、2016年に欧州ジュニア(現U20)選手権優勝の実績を持っている。
決勝は行わない単純トーナメント。その選手と別ブロックになれば幸いだが、同ブロックなら勝つしかない。欧州ジュニア王者の実績があるとはいえ、オーストラリア代表として出場した2022年世界選手権は57kg級に出場してグアム選手に勝っただけの10位、2023年65kg級は初戦敗退。決して恐れる相手ではあるまい。
サモアへの国籍取得は、かなりの困難を要した。決意したのは、ロシア・クラスノヤルスクで修行していたとき、親しいロシア選手が、層の厚いロシアではなく、国籍を変えて2016年リオデジャネイロ・オリンピックに出場したことがきっかけ。その選手の「人生が変わったよ」という言葉が胸に響いた。周囲は、ロシア国籍を離れたからといって何も変わることなく応援し、祝福していた。
今回の予選にオーストラリア国籍で出場する増田奈千(環太平洋大OG=関連記事)の決意より早い2017年頃のことだ。残念ながら2021年東京オリンピックへ向けては間に合わなかったが、パリ大会へ向けては十分な時間があると思われた。
しかし、同国は煩雑な手続きに加え、首相の前で宣誓するなど、他国にはないと思われる儀式も必要。首相が腰の手術と入院で長期間にわたって公務ができずに、「また無理か…」と思ったこともあったそうだ。
だが周囲の人の協力のもと、首相の自宅へ行って宣誓し、昨年12月、6年の月日をかけて国籍取得が実現。世界レスリング連盟(UWW)の国籍取得手続きは毎年12月の1ヵ月のみのため、もう数日遅れていたら、今年のサモア国籍での活動はできていなかった。「どうなるのか、と苦しい毎日でしたね」と振り返る。
「応援ばかりではなかった」とも言う。タレントの猫ひろしさんが国籍をカンボジアに変えてリオデジャネイロ・オリンピックのマラソンに出場したときも、少なからず批判はあった。“日本を捨てて”までオリンピックを目指す行動が、すべての人に受け入れられるわけではない。
“島国根性”とも言われる単一民族の日本の特性ではなく、英国でもロンドン・オリンピックの際、国籍を英国に変えて出場した選手に対して「Plastic Brits(えせ英国人)」という辛らつな声が挙がり、国籍取得問題は各国で物議をかもしている。それとは別に、他人の努力に冷ややかな視線を浴びせ、成功をねたむ人間が存在するのは、万国共通の人間の性(さが)だ。
国籍を変えてオリンピックを目指すことは世界のすう勢(現在から将来へかけての移り変わり)。母校・日大はあたたかく迎え入れ、練習への協力を惜しまない。その気持ちが伝わるからこそ、頑張れる。埼玉・花咲徳栄高校~日大でレスリングに打ち込み、困難を乗り越えての挑戦は “日本レスリング界”の誇り。熱き応援が望まれる。