「一難去って、また一難」「前門の虎、後門の狼」…。災難は続けざまに襲ってくることの言葉で、転じて、難関は次々とやってくるたとえに使われる。女子68kg級の国内の激闘を制してオリンピック代表内定を勝ち取った今の尾﨑野乃香(慶大)に当てはまる言葉だろう。
2月下旬に行われたパリ・オリンピック・パンアメリカン予選の同級で、72kg級世界V2のアーミト・エロル(米国)が階級を落として出場。勝ち抜いてオリンピック出場枠を獲得し、4月20日の米国最終予選を経て、尾﨑の前に立ちはだかることが確実と考えられるからだ。同選手は、男女を通じた米国レスリング最年少の世界チャンピオンなど、年少記録を次々と更新している“天才女子レスラー”。
米国メディアの記事には、名前の前に「prodigy」(天才)などという形容詞をつけられることが多く、世界レスリング連盟(UWW)のホームページは「蒸気機関で動くようなパワーで対戦相手を圧倒する技は、まばたきしているうちに見逃してしまう」と、最大級の賛辞で強さを表現している。
世界のメダリストが集まった激戦を勝ち抜いた尾﨑だが、稀に見る強敵との闘いに勝ち抜かなければ、金メダルは手にできない状況となった。しかし、尾﨑はきっぱりと言い切った。
「いろいろ書かれていますが、過大評価という気がします。動画を見て研究はしますけど、意識はしていません。どうしようもないほど強い選手、という思いはないです。同じ人間、同じ女子選手、同じ階級。何も変わらない」
これだけの言葉を言えるのは、2021年世界選手権(ノルウェー)での“失敗”にあるようだ。川井友香子の東京オリンピック優勝を受けて、62kg級の日本代表として世界チャンピオンを目指した尾﨑は、初戦で川井の決勝の相手であり、2019年世界チャンピオンのアイスルー・チニベコワ(キルギス)と対戦。4点を先制して優位をとったものの、それを生かせず最後は4-6と屈した。
「あのときは、名前負けしました」と振り返る。強い選手、と思い込んでしまい、ポイントをリードしたあと、「勝ち焦るというか…」と平常心を失っていたことを打ち明けた。そういう経験をしたからこそ、「今度は絶対に名前負けしません。いつも通りにやれば(勝てる)」ときっぱり。
2022年と2023年の世界選手権には、両選手とも出場しているが、尾﨑はパリでエロルと闘うことになるとは思っていなかったので、特別の気持ちで試合を見ることはなかった。
昨年の世界選手権での森川美和との闘いを見て、「(前へ出る)プレッシャーが強い選手」という印象がある一方、72kg級でも減量が苦しそうだったことも見ている。68kg級でやっていけるのかな、という思いもあるようだ。
事実、パンアメリカン予選ではブラジル選手に4点を先制され、72kg級時代には経験したことのない苦戦を強いられている。4点をリードされても冷静に闘って挽回できるのが強さなのだろうが、階級が違えば、前の強さが必ずしも通じるとは限らないのが階級制のスポーツ。エロルが72kg級で築いた実績による“幻想”を振り払うことができれば、減量がなくパワーとスタミナ十分で臨める尾﨑に分があると考えていいのではないか。
ともに階級を変えているので、パリではノーシード同士となる可能性が高く、初戦激突もありうる。これも、全日本選手権の初戦で最大の強豪と闘った尾﨑の経験値の方が高い。
エロルの母はロシア人。当初は柔道に親しみ、10歳からレスリングを始めた。今年1月1日に20歳へ。カデット(現U17)とジュニア(現U20)で世界一を達成したあと、2022年世界選手権72kg級を「18歳9ヶ月」で制覇。これは男女を通じた米国の最年少世界チャンピオン。10代にして4世代(U17、U20、U23、シニア)の世界を制覇し、天才を示す記録はいくつもある(関連記事)。
だが、尾﨑も4世代で世界チャンピオンになっており、ともに須﨑優衣に続く世界グランドスラムを目指す立場。実績では引けをとらない。こうも言った。
「自分も62kg級、そして65kg級で世界チャンピオンになりました。体重が68kgないのに、68kg級のオリンピックの出場枠を取りました。自分は強い、と自信をもって闘えば勝てます」
自信に満ちた言葉と表情からは、幻想に惑わされることはないと信じたい。尾﨑を指導している「くりもりクラブ」の栗森幸次郎代表によると、尾﨑は不安があっても決して口にしないと言う。不安を人に打ち明けることで、それがやわらぐケースもあるので一概には言えないが、「自分の中で不安と闘える強さがあり、不安と自信をうまく共存させることができているのかな、と思います」と、精神面での成熟に太鼓判を押す。
古今東西を問わず、筋書きのないドラマである勝負は、下馬評通りの結果にならないことが少なくない。日本の歴史を大きく動かした「桶狭間の戦い」(1560年)は、2000人の軍勢だった織田信長軍が、2万5000人の軍勢を誇る今川義元軍と激突した闘いだ。軍勢の数字は諸説があってはっきりしないが、今なら、どのマスコミ・評論家も今川軍の圧勝を予想した闘いだったことは間違いない。
だが、勝ったのは織田軍。綿密な作戦を練った織田信長と、勝ち戦(いくさ)と油断していた今川義元との気持ちの差を挙げる歴史家は多いが、織田信長が残したとされる「臆病者の目には、常に敵が大軍に見える」という言葉の逆こそが、織田信長が群雄割拠の戦国時代を勝ち抜いた(部下の裏切りで全国統一はならなかったが)最大の要因だろう。
尾崎は、2022年のアジア選手権でチニベコワに圧勝し、前年はチニベコワに負けたのではなく、幻想に負けたことを実感した。その失敗は繰り返さない。エロルの幻想をつくり、それに負けてはならない。
まず、4月のアジア選手権で初めて68kg級での国際大会を経験し、いっそうの自信をつけてパリへ向かう!