オリンピック出場枠のかかる試合で、リードして終了のホイッスルを聞いたウクライナ選手に、毅然としてコーション(警告)失格を下した世界レスリング連盟(UWW)のアントニオ・シルベストリ審判長(ドイツ)と小池邦徳審判員(日本オリンピック委員会/天理教教会本部)の判定が注目を集めている。
問題の試合は、5月9~12日にトルコ・イスタンブールで行われたパリ・オリンピックの世界最終予選・女子57kg級の3位決定特別試合、オーロラ・ルッソ(イタリア)とアリナ・フルシナ(ウクライナ)の一戦。UWWのインストラクターの小池審判員は、試合を裁く3審判員には入っていなかったが、シルベストリ審判長とともに判定の最終決定を下すジュリーとして試合に携わっていた。
オリンピック出場の最後の1枠をかけた闘いは、開始早々、フルシナが相手の髪の毛をつかみ、27秒の時点で最初のコーション(1失点)を受けた。その後、テークダウンを奪い、2-1へ。第2ピリオド40秒の時点で、フルシナの髪つかみに対して再びコーション(1失点)。それでもカウンター技で2点を取り、4-2とリードして終盤へ突入した。
ラスト50秒の段階でレフェリーはフルシナのコーションを挙げた。これが髪をつかんだからか、消極性なのかは不明だが、他の審判が同意せず試合続行。ラスト10秒くらいの段階で、ルッソが「髪をつかまれた」とアピールしたが、試合は止まることなく進み、4-2のスコアのまま試合が終了。ウクライナ陣営は歓喜に包まれた。
すぐにイタリア陣営がチャレンジ。小池審判員とシルベストリ審判長は、ラスト10秒の攻防のシーンをいくつかの角度から何度もチェック。会場の大型スクリーンにもそのシーンが何度も流れ、約3分30秒の検証の末、フルシナに髪とシングレットをつかむ行為があったと認定。3度目のコーションを科し、ポイントでリードしていたフルシナをコーション失格とした。
「本当に、きつい判断でした」と小池審判員。ウクライナ協会はUWWへ抗議文を提出し、UWWがその試合をあらためて検証した結果、5月23日に「判定に間違いはない」と決定。ルッソのパリ・オリンピック出場が決まった。
4-2でリードしていた選手を負けにするのは勇気が必要であろう。戦禍にあるウクライナの選手にパリ・オリンピックへ出場してほしいと思う人も多かったことが予想される。だが、判定には公平さが求められ、私情や思惑をはさんではならない。小池審判員とシルベストリ審判長は、何ものにも動じずフルシナの髪つかみを認定した。
重要な試合で、リードしている選手にコーション失格を下した日本人審判員は、1991年世界選手権(ブルガリア)にもいた。男子グレコローマン57kg級決勝、リファット・イルディス(ドイツ)-アレクサンダー・イグナテンコ(ソ連)の一戦で、レフェリーとして裁いたのが、福田耕治審判員(当時38歳=現全日本学生連盟会長)。
イグナテンコが1-0とリードして試合が進んだが、2度のコーションを受けていた。攻撃のアクションが見られないイグナテンコに対し、福田審判員は何度も「アクション!」の口頭注意を与えたのち、終盤(4分22秒=当時は5分1ピリオド)、消極性によって3度目のコーション。同選手はリードしていながらコーション失格し、金メダルを逃した。
福田審判員は「最終的に決めるのはチェアマンだから…」と話したものの、ルールではレフェリーまたはジャッジの判断があってから、チェアマンが判断する。福田審判員とジャッジのどちらが先にコーションを表示したかは定かではないが、福田審判員は当時、「(イグナテンコに)何度も『アクション!』と声をかけたが、攻撃しようとしなかった」と、自信をもってコーションを科したことを話していた。
消極性によるコーションは、髪つかみやグレコローマンでの下半身を使った攻防のような明確さはなく、ある部分では審判の主観で判断される。“目に見えない力”も幅をきかせていた時代、レスリング大国・ソ連の選手がリードしている状況で、消極性でコーション失格にするのは、だれにでもできる“芸当”ではない。福田審判員の判定には賞賛の声が挙がり、日本人審判員の毅然さ・公平さへの評価が高まった。
予想されるいかなる圧力をも恐れず、公平な判断を目指す日本人審判員の魂は、33年の時を経ても健在だった。審判員に最も必要、かつ重要なことは何か-。後に続く審判員の手本となる小池審判員の判定だったと言えよう。