昭和40年代から平成にかけて日本協会の機関誌をボランティアで編集、拓大レスリング部OBで元日刊スポーツ記者の宮澤正幸さんが今年2月28日、死去していたことが分かった。6月4日、ご家族が明らかにした。94歳。葬儀・お別れの会は家族・近親者で行った。弔問・香典・供物・弔電はすべて辞退とのこと。
宮澤さんは拓大卒業後、日刊スポーツ記者として大相撲のほか、柔道、レスリングなどを担当。1964年の東京オリンピックを取材。大相撲では数々のスクープ記事を書き、周囲から一目おかれる存在だった。そのかたわらでレスリング活動にも情熱を注ぎ、国際審判員や拓大監督を務めたほか(そのときのコーチは福田富昭・現日本協会名誉会長)、1967年に装いも新たに発刊された協会機関誌をボランティアで制作。当時の唯一の情報源として普及広報活動に貢献した。
その間、ボクシングに合わせたと思われる「ラウンド」「フライ級」という呼称を、国際レスリング連盟(FILA)の用語である「ピリオド」「kg級」に変更。おおらかな時代で、協会のだれにも相談することなく機関誌での呼称を変更し、それが定着したという。
また、一般的に使われている「五輪」という言葉は和製であるとし、「オリンピック」という呼称にこだわり、最後まで「東京五輪」といった言葉は使わなかった。
1990年に日刊スポーツを退職し、機関誌を後継者に任せた後、内藤克俊選手(米国ペンシルベニア州立大で主将を務め、1924年パリ・オリンピックのレスリング競技に日本選手として初出場し、銅メダルを獲得した)の足跡をたどる活動に従事。1996年、別冊文芸春秋に長編記事「遥かなるペンステート、-幻の銅メダリスト・内藤克俊の生涯-」を執筆するなど、日本レスリングのルーツを研究した。
その後、日本協会の顧問や拓大OB会の最高顧問など務め、2002年東日本学生リーグ戦で拓大が創部63年目にして初優勝を遂げたときや、OBの米満達弘選手(現自衛隊)の2012年ロンドン・オリンピック優勝のときには、涙を流して喜んだ。2017年には、長年のジャーナリスト活動を評価され、日本協会から功労者表彰を受け、全日本選手権の会場で表彰を受けた。
全日本選手権などでは協会の役員席ではなく、「生涯一記者ですから」と記者席で取材活動を継続。2021年の東京オリンピックは、無観客開催で協会関係者の来場も制限され、2度目のオリンピックをその目で見ることはできなかったが、テレビで観戦し、拓大OBの高谷惣亮選手(現拓大監督)らの活躍を見守った。
2年ほど前から体調を崩し闘病していた。
■2020年8月7日: 【特集】人生、不幸は幸に変えられる! 91歳で2度目の東京オリンピック取材を目指す宮澤正幸さん(元協会広報委員長)
■2019年7月24日:【東京オリンピック1年前・特集】2度の東京オリンピック取材を目指す89歳の現役記者、宮澤正幸さん(1)~(4)
■2018年11月25日: 団体優勝22回! オリンピック選手のべ8人…拓大80周年記念式典・祝賀会が盛大に行われる
■2012年10月26日: 米満達弘(自衛隊)が母校報告会であらためて五輪V2を宣言、高谷惣亮(ALSOK)は天皇杯に照準