「(日本代表の)石黒選手に比べると、ちょっと劣るかな、と思ったんですけど、何ら変わりない応援をいただきました。とてもうれしいです」
国籍をサモアに変えてパリ・オリンピックのマットに立つ男子フリースタイル65kg級の赤澤岳(埼玉・花咲徳栄高~日大卒)は、同じ高校と大学を歩んだ男子フリースタイル86kg級日本代表の石黒隼士(自衛隊)とともに花咲徳栄高校と日大の壮行会へ臨み、新たなエネルギーをもらった。
ロシアでの単身修行のあと、6年の歳月をかけて国籍変更を成し遂げ(関連記事)、滑り込んだ晴れの舞台。初期の頃に一部であった「日本を捨ててまで…」という雰囲気はほとんどなくなり、多くの人が快挙を喜び、応援してくれる。日本代表の清岡幸大郎(三恵海運)と闘うことになっても、「ともに健闘を期待する」が日本人の心情だろう。
日本代表選手は試合前の調整のため、7月26日にセーヌ川で行われる開会式には参加しないが、全競技合わせて20人前後のサモア選手団は参加予定で、日本で調整を続けている赤澤も合流する。国民性や文化風習の違いなのか、勝負に対するこだわりの違いなのかは分からないが、日本は試合へ向けての調整を最優先するのに対し、サモア人にとっては開会式という“お祭り”への参加は不可欠。サモア選手団として参加は必須だ。
赤澤の試合は8月10日。試合まで15日の空白ができるので、現地での調整が大変になる。「選手村の食事って、全世界のものを食べられるんですよね。でも、ボクは減量があるから満足に食べられません。つらいですね。阿部侑太コーチ(日体大OB=青年海外協力隊の活動でサモア在住)はしっかり食べられるのに…」と笑う。
一方で、開会式に出ることで日本にいる家族や友人・知人に自分の存在をアピールできる機会を得たことは喜ばしいこと。今大会の開会式は、セーヌ川を航行し、エッフェル塔近くのトロカデロ広場で式典が行われる。競技場外で行われるのはオリンピック史上初めて。
歴史的な開会式に参加できることもさることながら、「サモアの選手が日本のテレビで扱われることなんてないですよね(清岡との試合があれば別)。でも、開会式は最初から最後まで生中継される。自分がしっかり映ります。見てほしいです」
オリンピック出場への強い気持ちを胸に、出場権を取ったのが3月下旬にエジプト・アレクサンドリアで行われたアフリカ&オセアニア予選。「あきらめなければ、(夢は)達成できる」という最高の気持ちで出場枠を引き寄せたが、その代償は大きく、2回戦で負った左ひざの負傷は、日本に戻ってからの精密検査で「前十字じん帯断裂」と診断された。
その状態で準決勝を闘い、フォール勝ちして出場枠を手にしたのはオリンピックへの執念以外の何ものでもあるまい。「しっかり歩くこともできない状況だったんです。痛みを感じないくらいウォーミングアップをしっかりやりましたが、試合ではひざが抜けるような感じでした」と振り返る。体力のある相手の猛攻撃をしのげたのは、日本で培った技術のたまものか。
だが、オリンピックまでどうするかの問題が残った。医師が準決勝の動画を見て、「よくこの状態で闘えましたね」と驚嘆したほどの負傷。普通は手術するケース。そうなればオリンピックのマットに立つことはできない。
幸い、完全断裂ではなく、かろうじてつながっていた。PRP療法という自身の血液(血小板)を使っての再生医療でじん帯をつなげる治療方法があり、これで回復を目指す方法を選択。歓喜が待っているサモアには戻らず、日本で治療を続けた。「ロシアかインドへ行って外国選手とがんがん練習する、という計画だったんですけどね…」。
7月初め、やっとスパーリングができるまでに回復した。この間、上半身のウエートトレーニングなどはこれまで以上に量をこなしたが、マットワークをやってみると息が上がる連続。レスリングで必要な体力とは違うことをあらためて感じた。
だが、本番は間近。負傷前の体力を目指すとともに、無理しないことを心がけている。ひざを悪化させては、オリンピックのマットに立つことができない。以前なら、やられたら、やり返す気持ちが出てきて何度でも相手に挑んだが、今は「無理しない」と自分を抑えつつ、いよいよ晴れ舞台を迎える。
男子フリースタイル65kg級は、61kg級や70kg級の世界王者経験者も顔をそろえる激戦階級。ノーシードで参加する清岡幸大郎も6月のランキング大会で現役世界王者を破っているので、世界王者級の実力を持つと判断。出場リストを見て、「全員、強豪ですよ。有名な選手ばかり。ジョージ(オーストラリア代表のジョージ・オコロフ)と私がちょっと落ちるくらいかな」と笑う。
それでも、“同僚”の石黒隼士が最近傾倒しているアントニオ猪木さんの名言、「闘う前から、負けることを考えるバカいるかよ」の精神は忘れない。出場選手が16人と絞られているオリンピックは、世界選手権に比べると事前に出場選手の研究が十分にできる利点もある。優勝を目標に、最低でもメダルを目指す。
「人には勧めない」という国籍変更の困難を乗り越えてのレスリング生活の集大成は間もなくだ。