【パリ(フランス)、文=布施鋼治】日本男子グレコローマンの快進撃が止まらない。2024年パリ・オリンピック・レスリング競技第3日(8月7日)。前日の文田健一郎(ミキハウス)に続き、この日は男子グレコーマン77㎏級の日下尚(三恵海運)が快挙を成し遂げた。“伏兵”デメウ・ジャドラエフ(カザフスタン)との決勝を5-2で制して優勝した。
「日本を発つ前、日体大の松本慎吾監督からは『日下尚らしく闘ってこい』とゲキを飛ばされました。それが自信にもなったし、『自分のすべてをぶつけてやる』と決意しました」
大学1年のときから、日下はチーム練習とは別に松本監督に稽古をつけてもらうことが多く、ボロ雑巾のようにやられては、またぶつかっていくことで実力を伸ばした。「この金メダルを取るためには、松本監督とのスパーリングが必要だった。あの練習がなければ、今回のメダルの色は違っていたと思う」
コンスタントにレスリングを取材している筆者から見て、ここ1年で日下ほど急成長した男子レスラーはほかにいない。それは大会結果を見れば一目瞭然だろう。
今年4月のアジア選手権では、昨年秋の世界選手権で辛酸をなめさせられた世界王者のアクジョル・マフムドフ(キルギス)に雪辱。今年6月のUWWランキング戦では世界2位のサナン・スレイマノフ(アゼルバイジャン)を撃破。それらに先立つ今年1月の「ザグレブ・オープン」(クロアチア)では、2022年82kg級世界王者のブルハン・アクブダク(トルコ)も破っている。出場する国際大会では必ず爪痕を残していた。
報道陣とのやりとりでも、笑いを取ったり、“ボケ役”も演じられたりできるので、メディアも味方につけた。決勝が行われる時間は、他階級の日本代表がコメントを出す時間とかぶりそうだったが、パリに滞在している記者たちは「日下の試合は見たいよね」と声をそろえていた。 “ファン”の記者も多い。
優勝後、4年後のロサンゼルス・オリンピックについての質問がとぶと、日下は「映画『アベンジャーズ』に出演しているかも』と笑いを誘った。「なので、ロスの頃には宇宙にいるかもしれない(笑)」
もっとも、試合を振り返ってもらうとシリアスに答えた。例えば決勝。第1ピリオド、日下が小中学時代に励んでいた相撲で培った粘り腰を警戒したデメウは、相手の腕を取りながら距離を縮めることで、日下が得意のポジションを取らせないばかりか、ステップアウトも許さない。
案の定、第1ピリオドが終了した時点で、スコアはステップアウトとコーションでデメウが2ポイントリード。第三者から見ても、日下が攻めあぐねていることがひしひしと伝わってくる3分間だった。試合の流れはデメウに傾きかけていたように思う。
日下も「正直、自分のプラン通りにいかなくて焦っていた」と打ち明ける。しかし、冒頭で記したように、自分の全てをぶつけるという姿勢が揺らぐことはなかった。むしろ、その思いは強くなった。
「ラスト3分で人生を変えよう」
第2ピリオド、日下が片腕を差すと、デメウは露骨に嫌がっていると感じた。そのままひねると、相手は崩れるように倒れ込んだ。この攻撃で4点を奪い、逆転に成功した。
「特別に何かをしたというわけではなく、ただ前に出たことが、結果的にああいう形になった」
もともと日下は無尽蔵のスタミナを武器にしている。後半になっても動きが落ちることはなく、さらに1点を追加し勝負を決めた。
試合後、観客席にいた3歳から高校卒業まで地元・香川県高松市で日下にレスリングを指導した恩師・竹下敬先生や母・晃子さんの元に駆け寄った。
「直接感謝の気持ちを伝えられて、よかった」
常日頃、日下は自らを「凡人」と表現するが、竹下先生が口にした「才能は努力で変えられる」という言葉を忘れることはなかった。凡人だって、超人になれる。