(文=布施鋼治)
パリ・オリンピックのレスリング競技で最もインパクトのある逆転勝利といえば、レスリング第6日(8月10日)に行われた女子62㎏級準決勝、元木咲良(育英大助手)がグレース・ブレン(ノルウェー)との試合で、5点ビハインドで迎えた中で見せた反り投げからのフォール勝ちだろう。
その瞬間、場内から湧き起こったどよめきといったら、言葉には表せないものだった。驚いたことに、試合後、元木は「狙った投げではない」と証言した。「ブリッジして逃げようと思ったけど、たまたまひっくり返って、たまたまフォールできたというだけです」
練習でもやったことがないという。
「フォール負けだけは避けようと思い、ブリッジしようと思いました。反り投げを試合で決めたのは初めて。そもそも反り投げは怖くて、試合どころか練習でもやったことがない。本当に(レスリングの)神様が助けてくれたんだと思いました」
ブレンに勝った直後には涙を流していたが、その理由も明かした。
「5点差ついた時には、金メダルを取りに来たのにここで負けてしまうのではないかと思うと怖くなって…。その恐怖心から解放されたら(自然と)涙が出ました」
準決勝で劇的な逆転勝ちを収めたことで、元木は覚悟を決めた。「今日闘って、『怖いものは、もう何もない』と思った。明日の決勝は思い切り攻めて、自分の実力を発揮して金メダルを取りに行きたい」
その覚悟は翌日、イリナ・コリアデンコ(ウクライナ)との間で争われた決勝でも十分に発揮された。第1ピリオドからローリングとアンクルホールドで4-1とリード。第2ピリオドになると、電光掲示版の不具合で試合が長時間中断したが、元木の気持ちが揺らぐことはなかった。
「昨日は自分に負けてしまうような試合内容だった。今日は『自分に絶対負けない』という気持ちで臨みました」
中断前、スタミナをロスしているように見えたイリナは、再開後、回復していることが予想されたが、集中力を切らさないでいた元木にとっては関係なかった。最後はアンクルホールドで3回転させテクニカルスペリオリティを呼び込んだ。
「階級を上げる前(非オリンピック階級の59㎏級)の世界選手権は、準決勝で負けて3位だった。昨年(2023年)の世界選手権は階級を62㎏級に上げたけど、そこでも負けてしまった(2位)。そのときは『やっぱり私のレスリング人生、そう簡単にうまくいかせてはくれない』と思いました。でも、今、振り返ってみれば、金メダルを取るために必要な時間だったのかなと思います。無駄なことなんてひとつもなかった」
今大会では、昨年の世界選手権や今年のアジア選手権で敗れるなど一度も勝っていないアイスルー・チニベコワ(キルギス)への雪辱に燃えていた。しかし、意中のアイスルーは足のけがで不調。反対ブロックの準決勝で姿を消してしまった。綿密なアイスルー対策を練ってきただけに、元木は動揺したことを否定しない。
「やっぱりアイスルー選手の敗北がちょっと頭に残ってしまって。(準決勝時は)ちょっと集中しきれない自分もいました」
それでも、元木は宿敵に対して感謝の言葉を口にした。「アイスルー選手との対戦はなかったけど、弱い自分にリベンジ(することは)できました。パリに来る前は、彼女に負け続けていたので、本当に金メダルを取れるかどうか不安でした。この機会を得られたことに、これ以上ないくらい感謝しています」
これまでの挫折も、すべて今回の金メダルのための糧だと思ったら納得することもできた。「挫折をするたびに支えてくださる方の存在に気づき、レスリングができることの幸せを知ることもできた。挫折が自分を強くさせてくれ、レスリングを好きにさせてくれたのかなって思います」
安易に奇跡という言葉は使いたくないが、元木が準決勝で見せた動きは、まさにそれだった。パリで元木は″ミラクルガール″になった。