(文=布施鋼治)
「誰が、自分が優勝すると思っていたでしょうね…。僕だけは、自分が絶対優勝すると信じていましたけど」
優勝した直後、清岡幸大郎(三恵海運)は周囲の予想を“裏切った”ことで雄弁だった。2024年パリ・オリンピック最終日(8月11日)、男子フリースタイル65㎏級決勝で、2022年世界選手権優勝のラフマン・アモウザドハリリ(イラン)を10-3で撃破。その直後には「どうだ、見たか!」と言わんばかりに咆哮した。
無理もない。過去に清岡はU23世界選手権にこそ出場しているが、シニアの世界選手権への出場は皆無だったのだから。
昨年9月の世界選手権時、日本レスリング界の目は同級に出場した東京オリンピック金メダリストの乙黒拓斗(自衛隊)に注がれていた。しかし、まさかの3回戦敗退。乙黒を破った選手が勝ち抜いたので敗者復活戦に回ったが、負傷のため棄権することになり、オリンピックの出場枠を取ることができなかった。
乙黒は同年12月の全日本選手権での復活にかけたが、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。準決勝で清岡に敗れ、オリンピック連覇の夢を阻まれたのだ。
当時の清岡は学生二冠王者(全日本学生選手権、全日本大学選手権)という戦歴で、乙黒との攻防からも高いポテンシャルを感じさせたが、正直、すぐパリでの活躍を想像する者は少なかった。シニアでの実績があまりにも少なかったからだ。
欧米では合法賭博である「スポーツベッティング」での清岡のオッズ(配当率)は51倍。日本選手で一番低いオッズは柔道の阿部一二三選手で1.15倍、レスリングでは文田健一郎の1.25倍。体操界のニューヒーローとなった岡慎之助選手でも、男子個人総合では7.5倍、男子種目別鉄棒では17倍だから、いかに清岡の金メダルが世間の“予想外”だったかが分かる。
日体大で清岡を指導し、今回のパリでもセコンドに就いた湯元健一コーチ(日体大教)は昨年の全日本選手権では、乙黒との試合のひとつ前に組まれていた同門・山口海輝(日体大助手)との準々決勝がひとつの山だったことを明かした。
「練習を見る限り、山口を相手にすると、清岡は10回やって10回とも勝てない(状況だった)。そういう相手に、試合では勝ったんですよ。そこから乙黒にも勝ち、オリンピック・チャンピオンへの道に進む権利を得た」
清岡は実戦に強いタイプなのか。今回の決勝も「アモウザドハリリが有利なのでは?」と予想する関係者は多かった。
優勝したからこそ打ち明けてくれたが、湯元コーチも「正直、負けてしまう可能性も、ちょっとあるかな?」と感じていた一人だ。「決勝までのアモウザドハリリ選手は、無失点のうえにすべてテクニカルスペリオリティで勝ち上がってきている。対照的に清岡は、結構点数をとられながらの決勝進出でしたから」
アモウザドハリリとの決勝が決まるや、湯元コーチは「対策を講じることはやめよう」という決断を下した。対戦相手が決まると綿密な対策を立てる選手が多い中、意外といっていい戦略だ。
それにしても、なぜ?
「準決勝で、ちょっと作戦を練りすぎて、第1ピリオドは固くなってしまった部分がある。だから『決勝ではやってきたことを出すだけ』『自分のレスリングで最後までやり通そう』と決意して臨みました」(清岡)
案の定、最初にアクティビティタイムを受けたのはアモウザドハリリの方だった。しかし、30秒以内に清岡をステップアウトさせてアクティビティタイムも帳消しにしたが、清岡に動じるところはなかった。
「あのときは、湯元コーチが『今のは(清岡の体が)浮いていたから』と的確なアドバイスをくれたので、冷静になってリスタートを切ることができた」
その後、清岡は両足タックルから潜るようにしてバックを奪い、2-1と逆転に成功。さらに変型のアンクルホールドとして知られるリンクルホールドで、あっという間に10-1とアモウザドハリリを追い込んだ。このときの会場の盛り上がりといったら、パリ・オリンピックのレスリングの日本代表の試合の中で最も大きかったといえるのではないか。
その理由は、決勝まで清岡がダイナミックに競りあった末に勝ち抜き、試合の前後にはフランスでも人気の高い漫画『ドラゴンボール』の主人公である悟空の必殺技である元気玉のパフォーマンスを見せたことと無関係ではあるまい。
「その後は最後まで気を抜かず、相手から絶対に目を離さないぞと思いながら闘いました」。
湯元コーチの想像を遥かに超える速度で、この23歳の若者は成長している。