2024年パリ・オリンピックで取った8個の金メダルのうち、OBと学生選手で5個を取った日体大。その勢いで8月末の全日本学生選手権(インカレ)では、3スタイル合計で最多となる9階級を制し、U20世界選手権(スペイン)でも2選手(山下凌弥、尾西桜)が優勝。強さを見せた。インカレが終わっていったん解散し、しばしの夏休みをはさんで9月6日に練習を再開。床板の張り替えでレスリング場が使えなかったので、“本拠地”に戻ったのは9月14日だ。
1992年に東京・世田谷キャンパスから現在の健志台キャンパスに移ったレスリング場。床板を改修するのは初めてとのことで、32年にわたってマットを支え続けた床板は、最後にオリンピックの金メダリストを輩出して、その役目を終えたことになる。ただ、マットを敷けば、床が新しくなったことは、だれも気がつかない。行われている練習も以前とまったく変わらないハードさだ。
同18日の取材日、オリンピック金メダリストの姿はなかったが、韓国から選手が参加しており、今後も台湾など外国選手の練習参加が予定されている。松本慎吾監督の「目標は国内で勝つことではない。世界で勝つこと」という方針のもと、外国選手にも積極的に門戸を開け、4年後へ向けての闘いが始まっている。
当面の大会としては全日本大学選手権や全日本選手権、海外ではU23世界選手権と非オリンピック世界選手権(ともにアルバニア)がある。選手の視野の先の先には、2028年ロサンゼルス・オリンピックがあることは間違いない。
文田健一郎(ミキハウス)を目標に世界一を目指し、昨年のアジア大会で銀メダルを獲得した男子グレコローマン60kg級の鈴木絢大(レスター)は、今度の世界選手権は63kg級での優勝を目指す。パリ・オリンピック出場がならなかったあと、減量の少ない63kg級に上げて全日本選手権を制覇。今年4月のアジア選手権(キルギス)で銀メダル獲得し(関連記事)、それから半年、今度は世界へ挑戦する。
鈴木は「(文田)健一郎先輩やナオ(日下)が結果を出したので、自分も、という気持ちです。自信はあります」ときっぱり。63kg級の国際大会は、2021年にポーランドの大会でも経験しているので通算3度目。今年のアジア選手権では準決勝で昨年優勝のイラン選手を破り、決勝はカザフスタン選手に6-6のラストポイントによって惜敗と健闘している。全体として「一撃、一撃の重さは60kg級とは違いますね」との感想。そのため、重い階級の選手との練習を増やし、対策してきた。
ただ、階級区分とオリンピック実施階級が現状のままなら60kg級に戻す予定なので、体重が増えないように注意しながらのパワーアップを心がけている。「63kg級の世界チャンピオンとして(2028年は)60kg級に挑みたいです。結果にこだわって闘ってきます」と話した。
日体大の“熱さ”に、いったんマットを去った選手も戻ってきた。兵庫・神港学園高時代は一人部員という環境ながら、日体大で力をつけた樋口徹心(誠光)。2021・22年に男子グレコローマン82kg級で学生王者に輝き、2022年はU23世界選手権で7位に入賞した。だが、同期で同じ学生王者に輝いた日下尚(現三恵海運)がオリンピックを目指す環境に進んだことと対照的に、昨年3月の卒業をもって選手生活にピリオドを打ち、一般企業に就職して社会人として人生を歩み始めた(関連記事)。
その後、“未練”ではなく、体が動くので国体や出場資格のあった全日本選手権に出場したところ、休日にOBとして練習に参加するだけの環境下では、試合には勝てない現実を知った。悔しさがこみ上げてきた。同時に、「やめた人間としてレスリングを見つめてみると、とてもすばらしい競技だということに気づかされました」と言う。けがで選手生活を断念したのなら、あきらめもついたかもしれないが、そうでない形でマットを去ったことに、「もったいない」という気持ちがもたげてきた。
「このままでは、オレの青春は不完全燃焼…」との思いが、きつさを覚悟で現役復帰を決意させた。多くの人の骨折りで就職した会社だったので、筋を通すべきところにはきちんと通し、だれもがその気持ちを尊重してくれ、円満な形で退職できた。生活は不安定な状況になってしまったが、「レスリングへの熱い思いからの決断です」と、選択に後悔はない。
当初、体力は予想以上に落ちていて体も小さくなっていたが、それも徐々に元に戻り、今年7月の全日本社会人選手権では、決勝で2022年西日本学生王者の青山夢斗(自衛隊)を破って優勝。全日本選手権への出場資格を得ることができた。体力が本格的に戻った今後が期待される。
一般の社会人になったあと闘いに戻ってきた選手としては、男子グレコローマン71・77kg級で活躍した泉武志(現総合格闘家)がいる。大学4年生で学生王者になって卒業したあと、派遣社員としてテレビ局に勤務。だが、同世代の選手の世界での活躍に刺激されてマットに戻り、2014年全日本選手権優勝、2015・17年世界選手権出場、2017年アジア選手権優勝などの成績を残した。
日体大の先輩の泉のことは当然知っていて、オリンピックこそ出場できなかったが、アジア王者などに輝く成績を残した生き方は励みだ。大きな目標を持つと、それにつぶされる可能性があるので、目標はひとつずつ。まず、「最後の全日本選手権(2022年)が、期待されながら3位に終わってしまった」という悔いの払拭を目指す。
いろんな思いを持った選手の情熱がぶつかり合う空間。いずれ、2028年ロサンゼルス・オリンピックで2連覇を目指す選手の姿も見られるだろう。松本慎吾監督に「オリンピックで金メダルを取ったことで、天狗になる懸念はないでしょうか?」と聞いたところ、即座に「この環境の中では絶対にありません! 若い選手が次々と出てきて、突き上げてきます」ときっぱり。
オリンピック金メダリストといえども、安閑とできない空間が日体大の練習場。2028年までに、どんなドラマが展開されるだろうか。