仕切り直しのオリンピック・イヤーを迎えた。地元オリンピックに出場する選手と目指す選手はモチベーションを作り直すことに全力を尽くす一方、2024年パリ・オリンピックを目指す選手にとっては、すでに新しい闘いがスタートしている。可能性はどんな選手にも無限にある。それを感じさせてくれる2000年シドニー・オリンピック銀メダリストの永田克彦さん(WRESTLE-WIN代表)と2004年アテネ&2008年北京銅メダリストの浜口京子さん(ジャパンビバレッジ)に、レスリング人生を振り返ってもらい、栄光を目指して頑張っている選手へのメッセージをお願いした。(司会=布施鋼治/対談撮影=保高幸子)
――2人は2004年アテネ・オリンピックのチームメートです。その時はどんな会話があったのでしょうか?
永田 同じ日本チームの選手でしたが、特別に何かを話したということはあまりなかったと思います。
浜口 私は、シドニー・オリンピックでの永田さんの試合をテレビで見て、興奮して応援していました。「がんばれ! がんばれ!」と大興奮して、テレビを通じてエールを送ったことを覚えています。そのイメージのままアテネ・オリンピックの日本代表のメンバーになり、生の姿を間近で見て、うれしかったです。あこがれの目で見ていました。
永田 シドニー・オリンピックから、もう20年が経ちましたね(笑う)。めぐり合わせもあったのでしょうが、一番いい力を発揮できたのがシドニーでした。
浜口 すごく力強い試合でした。すばらしい試合でしたね。
永田 浜口さんと違い、マスコミから注目されていたわけではないので、プレッシャーはさほどなかったです。やりやすい面はありました。
――当時を取材した新聞記者が、永田さんから「マスコミは女子ばかり取材するよね」と言われたこと、オリンピックで銀メダルを取って「やりましたよ」と言われたこと、今でも覚えているそうですよ(笑)。
永田 言いましたね(笑)。オリンピックの男子より、世界選手権の女子でしたからね(笑)。浜口さんがあちこちのマスコミに取り上げられていて、うらやましいという思いはありました。ああいうふうに注目されてみたい、という気持ちはありました。
――2001年に大阪で行われた東アジア大会と2002年の釜山アジア大会でも、日本代表のチームメートだったわけですが、チームメートになって、話しかけた記憶は?
浜口 もちろん、ごあいさつはさせていただきました。同じ日本チームのメンバーになれたことがうれしかったですね。
永田 特別に何かを話し込んだ記憶はないのですが、アテネから女子が採用され、女子はすごく期待されていました。浜口選手はオリンピックの開会式の旗手でした。レスリング界のみならず日本チームの顔でしたから、刺激をもらっていましたね。
――2人は最近、宮崎県で地元選手の指導で一緒だったそうですね。
永田 去年2月です。宮崎県の都城市がウランバートル(モンゴル)と姉妹都市で、その関連でレスリング教室があり、ゲストとして呼ばれて指導しました。その前の年は、伊調(馨)さんと松永(共広)さんが務めていました。
浜口 そのほか、テレビ局の企画で私が父とともにWrestle-Win(永田さんが経営しているジム)にお伺いし、練習風景を見させていただきました。実はアテネのとき、男子選手とも、もっと話がしたかったんです。でも、恥ずかしがりなので、男子選手には話しかけられなかったんです。男女合同練習が何回かありましたが、そんな時はお互いに練習に集中しているから話すこともなく、練習以外でも話しかけていいのかどうか、分からなかったんです。
永田 今の選手は、どうなんでしょうね。昔は、女子は十日町での合宿が多かったわけですけど、今は味の素トレーニングセンターが中心。合同合宿でなくても期間が重なることもあり、食堂などで顔を合わせることが多いみたいです。世界選手権やアジア選手権が3スタイル同時にやるようになったのは2005年から。それ以前はスタイルごとにやっていたので、遠征先で一緒になることもなかったですよね。
――男子フリースタイルと女子が同時にやることは、時にありましたね。2001年のソフィア(ブルガリア)と、2003年のニューヨーク(米国)がそうでした。男子グレコローマンは、2001年はギリシャで、2003年はフランスでした(2002年は3スタイルが別)。2人が一緒に世界選手権に向かうことはなかったわけですね。
永田 アテネ・オリンピックの予選となった2003年の世界選手権は、グレコローマンはフランスのクレルモンフェランでやりましたね。
浜口 え! クレルモンフェランですか?(注=1997年に初めて世界一に輝いた時の開催地)
――いえいえ、パリ郊外にあるクレテイユです。
永田 そうでした。違いました(笑)。
浜口 クレルモンフェランなら、すごい偶然でしたけどね(笑)。思い出の地なんです。
永田 パリは華やかですけど、クレテイユは田舎でしたね。
浜口 フランスは、クレルモンフェラン以外にも、ショーブ国際大会でトゥルクワン、ワールドカップでリーベンに行っていますけど、ともにのどかな街でした。
――2人は顔が似ている、とも言われますよね。
両者 昔からよく言われますね。
浜口 私の弟も永田さんに似ていると言われますよ。シドニーで銀メダルを取り、日本レスリング界の伝統を守った永田さんと似ていると言われるのは、光栄なことです。
永田 浜口さんより、弟さんと似ているとよく言われます。本当にそうだと思いました。
――それによって親近感はあったのでしょうか。
永田 (笑)。親近感と言うより、刺激をもらっている、という方が強いですね。(浜口さんが)初めて世界一になったのが1997年で、スポーツ新聞5紙が1面トップ記事で掲載したことを覚えています。
浜口 ありがとうございます。
永田 レスリングが世間に対して、本当の意味で存在感を示したことだったと思います。マスコミへのアピールという意味でものすごく貴重でした。その分、プレッシャーもあったと思いますが、すごく大きな刺激でした。感謝することが多いです。
――女子が採用されたのがアテネ・オリンピックからでしたね。浜口さんは、そのあたりの緊張はいかがでしたか?
浜口 ありましたね。女子がオリンピック種目に加わることになったときから、ずっとオリンピックを意識していました。オリンピックの選考会のときから緊張のかたまりみたいでした。前の年にプレ・オリンピックが同じ会場でしたが、緊張が高まりました。それ以前は、1年に1度の世界選手権が、その年はオリンピックだ、くらいに思っていましたが、実際にオリンピックを迎えるにあたっては、とても緊張しました。
永田 今でも、女子は絶対に金メダルを取る、と思われていますが、初めて参加するアテネでも、前の年の世界選手権の成績からすれば金メダルを取る、と思われていましたよね。
――2人は、アテネの時は男子チームと女子チームの顔でしたよね。永田さんは前回のオリンピックの銀メダリスト、浜口さんは世界V5の選手であり日本選手団の旗手。どうしても取材は集まりますよね。
永田 オリンピック・イヤー恒例の越年合宿を茨城の大洗海岸でやったのですが、そのときのマスコミの多さにびっくりしました。アニマルさん(浜口選手の父)も来てくれましたよね。
浜口 寒中水泳のとき、真っ先に海に入ったんですよ。とても寒くて冷たくて。実は私、ひざくらいしか海に入らなかったんです(笑)。海水が冷たすぎて、痛いんです。でも、父は赤い海水パンツでザブーンと首までつかり、岩の上に立ち、太鼓をたたいて日本選手団の大活躍を祈念して“氣合注入”をしていました。
永田 寒かったですね。でも、さすがのお父さんも、宿舎に戻ってすぐお風呂に行きましたよ。
浜口 今も、毎日、自分自身のトレーニングをしてプロレスラーを目指す選手達を育てています。年齢を重ねても純粋な父です。