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2022.12.11

【特集(後編)】今も現役コーチで活躍、日本レスリング界に“革命”を起こした世界最高の技術の持ち主、セルゲイ・ベログラゾフ(ロシア)

《前編》

(共同執筆:William May=元国士舘大コーチ、元UWW記者 & Ikuo Higuchi)

 1994年6月、セルゲイ・ベログラゾフは日本の地を踏みました。日本は1988年ソウル・オリンピックまでフリースタイルで16個の金メダルを獲得していますが、1992年バルセロナ大会で金メダル獲得の伝統が途切れました。日本協会がセルゲイに白羽の矢を立て、王国復活を目指したのです。その招聘に応じ、日本での指導を決意しました。

 セルゲイはその動機を「日本で指導することは、日本のレスリングを学ぶ絶好の機会だと思った」と振り返っています。当時、日本選手に対して、「非常にハードなトレーニングをしていて、規則を守り、コーチに敬意をもっている」というイメージを持っていたそうです。若い選手を指導するとともに、「日本レスリングの伝統に接してみたかった」という理由があったそうです。

 来日したセルゲイは、まず数ヶ月後に迫った広島アジア大会で優勝選手を輩出することが目標でした。それに最も近い位置にいたのが、男子フリースタイル62kg級で前年のアジア選手権2位の和田貴広(現国士舘大監督=敬称略、以下同じ)でした。セルゲイは和田を見て、「柔軟性と素早さが優れており、62kg ではほとんどのレスラーよりも背が高い。技術の吸収が早い」と評価しました。

▲来日し、日本選手の指導を始めたセルゲイ・ベログラゾフ=1994年7月、山形県米沢市のMSTセンター

 セルゲイは和田に世界トップレベルのテクニックを徹底的に教えました。アジア大会では決勝で韓国選手を破り、両スタイル(当時フリースタイルは男子のみ)を通じて、日本として唯一の金メダルを取らせることに成功しました。セルゲイは「私の仕事は、日本選手に最高のレスリング・テクニックを教えることです」として、和田以外の日本選手にも技術を伝授。時に高校生の合宿にも招聘され、若い選手にも多くの基礎技術を教え、技術を身につけることの大切さを伝えました。

「勝つために一番必要なことは、選手本人の意識」とセルゲイ

 日本にも多彩な技術を持つ選手が多くいましたが、「精神力で勝つ」という根性主義も根強く残っており、セルゲイの指導が大きな転機となったとは確かです。セルゲイは「(目標を実現するための)独自の戦略を立てるのは、選手次第です」と話し、勝つために一番必要なことは選手本人の意識であることも訴え続けました。

 和田をアジア王者にしたセルゲイの次の役目は、和田をオリンピック王者にすることでした。ここで伝授したのが、当初は“またさきローリング”、のちに“ワダ・スペシャル”と名付けられ、世界中の強豪を次々とマット上に転がしたグラウンド技です。ゴービハインド(バックに回る)のあと、自分の両脚で相手の右脚をはさみ、右手で反対側の腕のひじを取るとともに左手で股下からその手首をつかみ、前方に回転する技です。

 回された相手はフォールされないために起き上がろうとしますが、その反動を使って再度回転します。相手の体が何度でもマットを転がり、その度に2点が入ります。日本での初公開は、1994年全日本選手権決勝の栄和人(現至学館大監督)との一戦でした。

 それまで見たことのない技に、会場は驚きの空気に包まれました。栄はそのときのことを振り返り、「え? という感じで回されていた。つかまれた手首をはずそうとしても、はずれなかった。あのグリップの強さはすごかった」と話しています。

▲1994年全日本選手権決勝で栄和人にワダスペシャルを初公開。パワーで定評のあった栄だが、「つかまれた手首(写真の○印)をはずせなかった」と振り返った

 世界選手権3位の実績を持つ栄は、当時34歳になっていましたが、まだ和田以外の若手の追従を許さない強さを持っていました。半年前のアジア大会代表選考会は決勝まで進み、和田に4-6で敗れたものの、次に闘えばどうなるか分からないといった感じの大接戦でした。それから半年後の再戦がテクニカルフォールで決着がつくとは、誰も想像していなかったでしょう。

 栄は「もう和田の時代だ」と、高校(鹿児島・鹿児島商工高=現樟南高)の後輩の強さを素直に認めました。マットを去る決意を固め、女子のオリンピック種目入りを目指していた福田富昭・協会常務理事(現名誉会長)の進言もあって京樽・女子チーム監督、および全日本女子チーム・コーチとして指導に専念することにしました。和田がいなければ現役への気持ちを持ち続け、日本女子レスリングの輝かしい栄光は遅れていたかもしれません。

 日本では初公開の技でしたが、セルゲイは国際舞台でもこの技を使っていました。1987年世界選手権の決勝、ベリー・デービス(米国)戦では、この技でテクニカルフォールを奪っているのです(前編の最初の白黒写真)。また、和田はキム・ヨンシク(北朝鮮=1986年世界選手権52kg級優勝など)の動画で見たことがあるそうで、それを来日したセルゲイに伝えたところ、「私の技だ」と教えられ、指導を受けたと話しています。

前年の世界王者を撃破した1995年世界選手権だが…

 和田は年が明けるとロシアとウクライナへの遠征でこの技を試し、実力をつけ、4月のワールドカップ(米国・チャタヌーガ)で前年の世界王者マガメド・アジゾフ(ロシア)にも仕掛けて見事に成功させています。試合には敗れましたが、世界王者と互角近くに闘える実力をつけました。

▲前年の世界王者マガメド・アジゾフ(ロシア)にワダ・スペシャルを決める!=1995年4月のワールドカップ(米国)

 同年8月の世界選手権(米国・アトランタ)でのアジゾフとの再戦では、1点をリードされ、ラスト8秒で(グラウンドの膠着によるブレークで)試合再開となりました。こうしたケースでは、単純な“飛び込みタックル”となり、相手にかわされることが多いのですが、和田はフェイントを使って攻め、8秒の間に1点を取って同点としました。このフェイント技術もセルゲイの伝授だと思います。当時のルールは、同点の場合は延長となり、先にポイントを取った選手が勝者となります。和田は延長で貴重なポイントを取り、世界王者を撃破する殊勲を挙げました。

 決勝は、欧州6位のエルブラス・テデエフ(ウクライナ)が相手。5-5で延長に入り、テデエフが片足タックル。和田はこれを返しました。審判団の協議の結果、タックル返しによる2ポイントが認められ、和田の手が上がって試合が終わりました。しかし、ウクライナ陣営から「プロテスト」(書面抗議=当時のルール)が出され、試合後にビデオチェックが行われました。その結果、テデエフのタックルに2ポイントが入り、テデエフの勝ちとなってしまいました。

▲前年の世界王者を破って引き上げる和田貴広とセルゲイ・コーチ=1995年世界選手権

▲一度は和田の手が上がったテデエフとの決勝。非情の“逆転判決”を報じる月刊レスリング=同

 セルゲイはFILA(国際レスリング連盟=現UWW)に猛然と抗議しましたが、受け入れられるはずがありません。ウクライナ陣営ともやりあったようです。セルゲイは引退後、ソ連から独立したウクライナに請われて同国代表で世界選手権に出場したことがあります(1993年)。陣営の多くはセルゲイの知り合いです。

 かなり強硬な抗議だったのでしょう、激高した相手陣営のだれかから殴られたという話もあります。本人は口を閉ざし、定かではありませんが、「多くの友をなくしたよ…」とつぶやいていたことが印象的でした。

▲和田にバックを取られると、コーション覚悟で腕を固める相手選手(注=防御のみを目的に体の一部を固めるのはコーションの対象)。世界中の選手から研究されていたが、それでも仕掛け、白星街道を突っ走った=1996年アジア選手権

あの“逆転判定”がなかったら、その後の2選手はどうなっていたか…

 米国レスリング協会のゲーリー・アボット記者は2005年、この試合を回顧した記事を執筆し、この逆転劇が両選手に何をもたらしたかを書いています。テデエフはこのあと、1996年アトランタ・オリンピックで銅メダルを取り、1999年と2002年の世界選手権で優勝。2004年アテネ・オリンピック66kg級で優勝したのに対し、和田は69kg級に上げ、1999年アジア選手権で銀メダルを取っただけに終わりました。

 アボット記者は、「この試合で判定が覆らなかったら、和田はオリンピックでメダルを取り、その後も世界チャンピオンになっただろうか」と考察しています。どんなに考えても歴史が変わることはありませんが、和田があのときに世界一になったら、それを自信にして翌年のアトランタ・オリンピックで金メダルを手にした可能性はあります。逆に、テデエフの世界一とオリンピック優勝はなかったかもしれません。

 ただ、アボット記者は、セルゲイが日本協会との契約を終えて1998年3月に日本を去ったことには触れていません。私は、セルゲイが日本に残って和田への指導を続けていたら、どうなっただろうか、と考えます。

▲1998年3月、日本を去ったセルゲイ・コーチ。成田空港で和田とがっちり握手

 和田が引退したあと、ワダ・スペシャルの使い手は現れていません。長身で手足の長さが必要な技なので、だれにでも向いているものではありませんが、次の使い手が現れないほど難易度の高い技だったのだと思います。

 セルゲイは今年9月、ベオグラードでの世界選手権の最中、「タカヒロ(和田)は、私が今まで教えた中で最も記憶に残るレスラーです。私は彼をコーチすることが楽しかった。彼とはずっと友人であり、すばらしい仲間であり続けています」と話し、アトランタ・オリンピックまでの激闘が懐かしそうでした。《完》

▲和田の現役最後の試合となった2000年シドニー・オリンピック予選3回戦。ワダスペシャルを爆発させて締めくくった

▲今年9月、66歳になったセルゲイ・コーチ。その技術とレスリングへの情熱は健在だった=ベオグラードにて







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