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2021.01.04

【新春特集】永田克彦さん&浜口京子さんが熱きメッセージ(4)完

《第1回》《第2回》《第3回》

(文=布施鋼治/対談撮影=保高幸子)


勝つたびに怖さが出てくる! だからこそ必死で練習した(浜口さん)

――2人の共通項として、キッズ・レスリング出身ではない中からオリンピックの表彰台に上がっていることです。表彰台での気持ちは、どんな感じでしたでしょうか。

比較的遅い年齢からレスリングを始め、オリンピックの表彰台に立った永田克彦さんと浜口京子さん

浜口 やっとここまで来たな、来られた、という気持ちでした。実は、目指していたのは金メダルだったので、準決勝で負けた時は頭の中が真っ白になったんです。そこでもうオリンピックは終わったと思って、3位決定戦があることすら考えていなかった。そうした状況の中での3位決定戦、それに勝っての銅メダルです。

永田 表彰台にのぼったときは、夢じゃないかな、と思いました。夢の中での出来事と感じるくらいの高揚感がありました。出発前まではマスコミから注目もされていない中、何とかメダルを取りたいという強い気持ちはあり、やることはすべてやって臨みました。銀メダルというのは、負けての結果なので、満足していない表情の選手が多いようですが、ボクは「これ以上はない」という気持ちでした。「満足」と言うと語弊がありますが、心の底から喜ぶことができた銀メダルでした。

浜口 オリンピックの厳しさと楽しさを感じたアテネの表彰台でした。頂点ではなかったのですが、私の人生の中で、「やり遂げた」と感じることができた気持ちでした。

永田 4年後のアテネ・オリンピックでは結果を出せませんでしたが、オリンピックでいい結果も悪い結果も経験できたことは、大きな財産でした。

無名の存在から一気に日本の顔になった永田克彦さん=2000年天皇杯全日本選手権ポスター

――オリンピックでメダルを取ったあとのプレッシャーというのは、ありましたか?

浜口 全日本選手権でチャンピオンになった後は、チャレンジではなく守る立場になったわけです。そうなると、攻めることに怖さが出てくるんです。挑むときは無我夢中で怖さは感じないものですが、頂点に立つと、「負けたらどうしよう」という気持ちが出てきます。日本一になり、世界一になり、オリンピックでメダルを取る度に怖さが出てきましたが、怖いからこそ練習に打ち込めた面がありました。臆病な性格だからでしょうか、不安はたくさん出てきて、でも、不安だからとことん練習しました。

永田 全然注目されていない選手が、メダルを取って注目されることになったわけです。日々の一挙手一投足がすべて注目され、結果を出せないとたたかれてしまって、知らず知らずのうちにプレッシャーを感じましたね。何とかこなして、2回目のオリンピック出場を決めましたが、背伸びをしたり、無理に追い込んだりして自分を見失ってしまったことも多少はありました。立場が違う2回のオリンピックを経験できたのは、その後に生かされています。

浜口 北京オリンピックのときは、女子4人のうち一人だけ前の年の世界選手権(オリンピック予選)で結果を残せませんでした。気持ちが空回りした面がありました。弟が「少し休んだ方がいいんじゃないか」と言ってくるほどでした。でも、全日本選手権もあったし、休むひまなんてないんです(笑)。それでも、「休め」と言ってもらったことで肩の力がすーっと抜け、気持ちは楽になりました。

強い心を持てば困難を乗り越えるられる(永田さん)

プレッシャーに打ち勝って北京オリンピック出場権をゲット! アニマル浜口さんは号泣した(2008年3月、韓国・済州島)

――2人ともプレッシャーとの闘いだったわけですね。

浜口 全日本合宿では、北京オリンピックの出場を決めた3人(伊調千春、吉田沙保里、伊調馨)がサポートしてくれて応援してくれたので心強かったです。それもあってアジア予選で出場資格を取りましたが、正直言って、その時期はつらく、弱音をはくことも多かったです。

--女子で一人だけ取れていなかったというのは、つらかったでしょうね。

浜口 あるとき、「弱音は口にしない、思わない」と決めました。ネガティブ(否定的)な気持ちを一切遮断することで、自分の中で芯ができたと思います。指導する父もつらかったと思います。アジア予選で優勝して出場資格を取ったとき、父は声を出して大泣きしていましたから。アテネのときと違い、細い糸をたどってのオリンピックでしたので、それが自分の大きな糧になっています。次のロンドン・オリンピックでは、メダルは取れませんでしたが、これからの人生に役立つ経験ができたと思っています。

――次世代の選手に伝えたいことは?

浜口 私はレスリングに育ててもらった、という気持ちでいっぱいです。体も心も。世界一やオリンピック優勝を目指す道は、とてもつらかったのですが、よく耐えてきたな、と感じることが多いです。同じことをやろうとしても、もうできないでしょう。いろんな面で耐えて頑張った日が思い出されますが、それがあったから、今の私があります。

現在は東京・WRESTLE-WIN代表のかたわら、日本ウェルネススポーツ大学の監督も務め、キッズ選手から大学生までレスリングを指導する永田克彦さん

永田 人間が持っている可能性は、自分自身が思っているよりもはるかに大きいということ。可能性というのは、どこまででも広がっていくものです。限界を決めず、つくらず、あきらめないでやり続けてほしいと思います。僕自身、レスリングを始めた頃から強かったわけではないし、結果も出せませんでしたが、その中でやってきてオリンピックのメダルにまでたどりつけました。何が何でもやる、という強い心であり、自分には何が必要なのかを具体的に導き出して取り組むことだと思います。どんな困難があっても、その2つを持っていれば、結果につながると思います。

浜口 レスリング一筋にやってきたからこそ、別分野のいろんな人と接することが多い今、より新鮮なことを感じることが多いです。レスリングと出合えてよかった、やってきてよかった、という気持ちでいっぱいです。私そのものがレスリングです。レスリング選手は、マットに上がっているときが一番輝いていると思います。それは間違いありません。コロナ禍の今、思うように練習ができないと思いますが、今できることしっかりやってほしいと思います。

永田 実はこれまで正夢を2度見ています。1度目はシドニー・オリンピックの半年前。世界予選(当時は3大会に出場してのポイント制)を闘っている最中で、まだ出場は決まっていませんでしたが、オリンピックで闘っている自分がいました。準決勝で強豪外国人と闘って勝ち、応援席が湧いていた夢です。

「可能性に際限はない」(永田さん)、「努力は無駄にはならない」(浜口さん)

――現実そのものではないですか?(注=シドニーでは準決勝で欧州選手権2連覇のロシア選手を撃破)

永田 永田 何が何でもオリンピックへ行くんだ、という気持ちが、そんな夢を見させてくれたと思います。実際に、1日24時間、レスリングのことを考えていました。考えることやエネルギーのすべてがレスリングの方に向いている。そこへたどり着くのは自然な流れだと思います。思いが強いことは、夢にまで出てくるものなんです。そのベクトルが強いほど、達成へ向けてのエネルギーになるものです。

レスリング界の顔として多方面で活躍する浜口京子さん

――もう一回の正夢は?

永田 2012〜2013年頃だったと思います。またレスリングの試合に出たい、という気持ちが出てきたときです。再び全日本選手権のマットに立って、決勝に出て昔と同じように優勝した夢を見ました。オリンピックが終わったあともずっとレスリングへの思いがあったから、そんな夢を見たのだと思います。実際に2015年に全国社会人オープン選手権で勝って全日本選手権の出場資格を取り、13年振りに7回目の優勝をすることが出来ました。42歳の時でした。

浜口 42歳で全日本チャンピオンなんて、すごいですね。他の競技を見ても、そうそういないでしょう。優勝するには体力もメンタルも必要ですよね。

永田 誰もがすごい可能性を持っているし、強い思いを持って取り組んでいけば限りなく広がっていくことを次世代の選手に伝えていきたいですね。

浜口  試合で勝っても負けても、私はそのとき、全力で目標に立ち向かっていきました。この気持ちでこれからの人生を歩めば、さらに成長できると信じてます。 今までの経験は私の人生の誇りになってます。

《終わり》

※5・6日に永田克彦さんから、6日に浜口京子さんからの特別メッセージをお届けします







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